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母さんは大事なことを私には絶対相談しなかった。
新しい家電を買う時も転職する時も風邪を引いた時も何も言わなかった。後日、酔った時、ふいに口からこぼすだけだ。それから、私のことに関しても特別何も言わずに決めていた。小学二年生の時、母さんと父さんの離婚が決まった。私は二人の仲がいいと信じていたから、だんだんと小さくなる父さんの背中を見て、号泣した記憶がある。そして、私は転校した。なにも知らなかった。言ってほしかった、と鼻水をたらしながら伝えても、母さんは電車の中でなにも言わなかった。その時、私は、母さんはきっとこういう人なのだ、と初めて気が付いた。それから何度か転校して、母さんの仕事が変わって、家も変わることがあった。けれど、母さんは私になにも教えてくれなかった。今回もそうだ。知らない男性が大きな車で家へ迎えに来た時、私は恐怖で包丁の場所を頭の中で確認したというのに。母さんはその人に呑気に抱きついてから、引っ越すよ、とだけ言った。もうなにも思わなかった。どうか、この前の恋人みたいに意地悪な人じゃありませんように。そのことだけ願っていた。
慣れた手つきで最小限のものをリュックに詰めて、荷物でいっぱいになった車の端っこに乗って、大音量で流れる洋楽に耳を塞いだ。そうしながら着いた先は、とても広い家だった。豪邸、とは言わないんだろうけど、大きい、と思った。三階建ての家に圧倒されていると、犬の鳴き声が聞こえた。そして、家の中から小学生高学年ぐらいの男の子が出てきた。覚えているのはそこまでだ。そこからは多分、まともに頭を回していなかった。シャットダウンボタンを懸命に頭の中で探していたせいだと思う。
「ポチ。散歩行こう。」
秋田犬か柴犬かよく分からないけれど、綺麗な毛並みのこの犬には、もっと素敵な長い名前がついている。何度聞いても思い出せないので、私はこの子をポチと呼んでいた。
外は大雨だというのに、ポチは散歩というワードに反応して起き上がった。立派な首輪にリードをつけて、リビングにいる家族には何も言わずに外に出た。なにを考えていたのか、自分でもよく分からず、私とポチは傘も持たず合羽も着ずに家を出た。
ポチは時折ぶるぶると身体を震わせて、水滴をはじく。外に人はほとんどいない。そういえば、大雨警報が出ていたような気もする。夏の雨だからか、まとわりつく水はなんだか生ぬるい。とてもどんよりした空の下、ポチは楽しそうに歩いていた。
散歩役を買って出たのは、とにかく家にいたくなかったからだ。
引っ越し作業が終わってすぐ、母さんとお父さんは入籍した。母さんは結婚式もしたがっているらしい。情報誌を楽しそうに読む母さんは、とっくにあの大きな家と少し距離がある父子に馴染んでいた。けれど、私はその輪の中に入れなかった。お父さんは初めての娘との距離感に悩んでいるようだったし、弟は私が半径一メートル内に入ると、すぐにどこかへ行ってしまう。馴染めない私を、母さんは気にも留めず、いつも楽しそうに笑っている。
きっと、弟がもう少し幼かったらまだよかった。家族になって一か月ほど。毎日のようにそう思う。小学五年生なんて、多感になり始める時期なのに。知らない女二人が家に乗り込んで、片方は父親にべたつき、片方はいつも犬の傍にいるなんてたまったもんじゃない。彼のストレスがいつか爆発しないか不安になりながら、私は彼とうまく近付けないでいる。母さんは能天気だから、距離感なんて気にせずにとことん弟に話しかける。二人は三十以上離れているけれど、私とは五つしか離れていないのだ。高校生の姉が突然できるなんて、どんな気分なのだろう。
ボーっとしながら空いている手でぐっしょりと濡れた髪の毛をさらにぼさぼさにした。ポチが水溜まりに飛び込んだせいで、運動靴が濡れた。長靴なんて便利なもの、私は持っていないのだ。だからと言って、明日から履ける代わりの靴も持っていない。そう言えば、今着ているのも学校のジャージだ。明日は体育があるのに。どうして、こんな天気の日に散歩に行こうと思ったのだろう。たまに、自分がなにを考えているのか、自分でも分からなくなる時がある。今日はいつも以上に分からない。
ポチがさっきよりもさらに大きい水溜まりに飛び込んだ時、「あの、」と低めの声が湿度の高い空気の中で響いた。
聞き慣れたわけではないけれど、聞き覚えのある声に私よりも反応したのはポチだった。しっぽをぶんぶんと振り始める。
「傘も持たないで、なにやってるんですか。」
自分の黒い傘を差しながら、ビニール傘を一本手に持つ男の子は、私の弟になった子だった。呆れたような目で私を見る。初めて、半径一メートル内に入れたような気がした。
朝ごはんは彼の方が早く食べ始めて私ががリビングに行くまでに食べ終わってしまう。晩ごはんは私の帰りを待ってくれない。たまに私よりも帰りが遅いお父さんと気まずくなりながら食べることもある。休日、彼は友達と朝から遊びに行って門限ギリギリまで帰ってこない。とても窮屈なんだろうな、と細い身体を見るたびに思う。そんなこんなで私を徹底的に避ける彼がどうして迎えに来てくれたんだろうか。
「母さんとお父さんは?」
「昼から酒呑んで、寝てます。」
「サイくんはどうしてここに?」
才、と書いて、サイ、と読む。サイくんと呼ぶのは未だになれないけれど、言いづらくはない。響きが好きだな、と思うこともある。
「ポチとサラサさんがいなかったんで。暇だし、なんとなく。」
小学五年生の彼に似合わない、とても強がったようなその口調は、なんだか可愛らしかった。
サラサ、更紗。小学生の頃、クラスメイトにサラサラさんとよく呼ばれていた名前は、同じ小学生の彼が呼ぶと不思議な気持ちになる。どうしてか、私の名前のように聞こえないのだ。
「風邪、ひきますよ。」
サイくんが傘を突き出す。私はありがたく受け取った。ポチは汚れた身体をサイくんのズボンにこすりつける。サイくんは嫌がった素振りを一瞬も見せなかった。リードをサイくんに渡して、先を進み始める二人から一定距離離れて、私も辿った道をもう一度歩んだ。
「サイくん、私のこと嫌でしょ?」
庭も充分な広さで、大きな花壇がたくさんある存在感のある家が、新しい我が家が見えてきた時、私はそんな言葉を小さな背中に投げつけた。ポチが先ほどまで急ぎ足で進んでいたのに、空気を読んだようにペースを落とした。こんな質問、年上からされたらいやだなあ、と思いつつ、「そうでしょ?」と煽る。
サイくんは立ち止まり、振り返った。黒い傘で顔が見えたり見えなかったりを繰り返しても、私を見ていることが分かった。
サイくんはなにも言わなかった。
雨音が強くなる。雨から身を守るものがなにもないポチがキャンとか細い声で鳴いて、サイくんはまた進み始める。
私はしばらく動けずにいた。一見、キラキラしていて純粋さと好奇心で光る目の奥にある黒いものを見てしまったような気がした。ごくりと、口の中に溜まった唾を呑みこんでから、少し離れたサイくんにもう一度言葉をかけた。
「私は、嫌いじゃないよ。」
サイくんは立ち止まらずに進む。ポチが私を振り返っても進み続ける。
四人家族になってから、新しい父親は器用な人ではないと知った。不倫とかできないタイプよね、と母さんが笑顔で言ったことがあった。料理も掃除もまともにできないお父さんが暮らす家はいつも清潔だった。最初は家政婦さんがいるのかと思った。けれど、いなかった。前の奥さんと別れたばかりからか、とも思った。前の奥さん、つまりサイくんのお母さんは三年前に別の男の人といなくなったらしい。じゃあ、どうして不器用な人が暮らす家がこんなに綺麗なのだろう、花は枯れずに咲き誇って、衣服には皺が一つもないのだろう、と。
ああ、そうか。サイくんだったのか。そう知ったのは、早めに帰れたある日、彼が洗濯物を干して花に水をやっていたところを見たからだった。とても慣れた手つきで、昔からやっていることは一目でわかった。サイくんがいない休日のご飯はいつもレトルトやカップラーメンで、呆れた私が料理を振る舞うこともあった。なんだかサイくんがとても気の毒に思えて、酔ったお父さんにとある日聞いてみた。どうしてサイくんが家事をやっているのか、と。金を稼ぐのは俺で家のことをするのはあいつだ、と笑顔で当然のことのように言ったお父さんに吐き気がした。お父さん、と心の中で呼ばないことは許されるだろうか。
サイくんが自分から進んでやっているのなら、なにも言うつもりはなかった。けれど、そうじゃないと気が付いてから、私はサイくんとの距離を縮めたくなった。けれど、サイくんはいつも私を避ける。彼の足に小さな傷がいくつもあることを確認してからも何度かチャレンジした。けれど、全て無意味だった。あの傷は誰かにつけられたものではなく、自分で作ったものだろうとなぜかそう思った。サイくんはどうしたらもう一度振り向いてくれるだろうか。これはまるで恋みたいだ。自己中心的で自分がよければ全てよしと思ってしまう領域に足を踏み込んでいる。けれど、これは恋のように美しいとされるものではない。
ポチが思いきり身体をふるわせて、サイくんがポケットから鍵を取り出す。
私はサイくんに構ってほしくて、後先考えずに雨の中へ飛び出したのかもしれない。サイくんからしたら、とんだ迷惑だろう。
サイくんが鍵を鍵穴に差し込んだ時、私は口を開いた。
「私は、敵じゃないよ。」
サイくんの動作が一瞬止まって、目が見開いたような気がした。けれどすぐに扉が開く。
私はサイくんの家族に、姉になりたい。
大事なことを教えてくれない母さんや大切なものを丁重に扱わないお父さんには、絶対に秘密だ。
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