玻璃の王冠、蒼の跫音

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 単線の線路の伸びる小さな無人駅に降りたのが、二時間前だった。そこからやはり無人の小さなロータリーに突っ立ってバスを待つ。ジジジと蝉の鳴き声がそこかしこでした。太陽は高く、空には雲ひとつなく、日差しを遮るものも勿論なく、おれは上から夏の日差しを、足元からアスファルトの照り返しを受けていた。五分と経たずに、びっしょりと汗をかいた。Tシャツが汗を吸いきれずに湿って重い。朝洗ったばかりなのに、黒髪の中までじっとりとしている。 「暑い」  耐えきれずにおれは吐き出した。錆びて少し傾いたバス停にくっついている時刻表は、日に焼けて色褪せている。それを目を凝らして読むと、バスはあと五十分は来ないようだ。思わず重たい嘆息をする。 「水……」  せめて冷たい飲み物が欲しい。ぐるりと頭を回して、周囲を見る。背後には年季の入ったトタン屋根の平屋の駅舎があった。一両の電車しか止まらないプラットホームは短く、従って駅舎も小さい。この駅で降りたのはおれひとりだった。駅員もいない。  線路に沿って雑草が伸び伸びと育っている。その向こうは山の斜面が迫っていた。こういう風景に慣れていないおれは、少し面食らう。山とはこんなにも近くにあると、ただの木々の茂みにしか見えないのか、と妙な関心をした。  しかし目のつくところに売店はなさそうだった。錆びの浮いたシャッターの閉まった、商店らしき平屋が一棟あるだけだ。その軒先にも雑草が茂っている。そこに自動販売機が一台あったけれど、きっと電気は通っていないんじゃないだろうか。赤い箱の全体に土の汚れがついていて、商品の見本も倒れている。とてもじゃないが、運よく中身が入っていたとしても飲めるとは思えなかった。  仕方なし、おれは背負っていたリュックから、半分程減って温くなったペットボトルの麦茶をとり出す。のろのろとキャップを外して、口をつけた。麦のにおいと微かに甘い液体を口に含む。一口飲んでから口を離し、無意味にペットボトルを揺らした。ちゃぷ、と水音が立つ。  そのとき、脳裏に言葉が浮かんだ。    夜店の金魚 すくはるるときの かがやき    こんな暑くて乾いた風景とは無縁のような、涼しげな俳句だった。この十年の間に知った俳句だった。  暗くなった参道で、煌々と光る屋台の電球が浮かび上がる。その電球の照らしているのは、ごく浅い水槽だった。人工的な水色のそれには、色とりどりの金魚が泳いでいた。赤い細身の和金、赤の入った白い尾ひれの土佐錦、ちから強く泳ぐらんちゅう、真黒な出目金、白に赤や黒の斑の入った丹頂。みな尾ひれを優雅に振り、水槽の中を泳いでいる。それに夢中になるので、屋台に書かれた「金魚すくい」の文字の上半分に電球の明かりが届かず、闇夜に消えていても気にならない。  何ともちゃちなポイを握る。水面にポイを近づけると、のんびりと泳いでいた金魚たちは一斉にさっと散る。その中で一匹逃げ遅れたやつを狙う。水槽の端に追いやる。掬う。ポイの上で真赤な金魚の尾ひれが跳ねる。飛んでくる水しぶきは生臭い。  そんなものを連想されられる。  一時、ジジジと鳴く蝉の声が遠ざかっていた。強い日差しも、それを照り返す日差しも、暑ささえも遠ざかった。  おれは金魚すくいで金魚を掬えた試しはなかったけれど、なぜかそんな想像は容易にできる。ついでに何かを思い出しそうになった。慌てて頭を振る。こんなところで白昼夢を見てしまったら、きっと熱中症で倒れてしまう。  三度頭を振った頃、ようやくバスが来た。不愛想に開く扉の内にある、急なステップを踏んでバスに乗る。冷房は大して効いていなかったけれど、ずっと外で立っていて火照ったおれのからだには、それでも嬉しい。前輪と後輪の間の座席に座り、車窓に目を向けた。  目的地までまだ時間はある。ゆっくりとバスが発車して、ロータリーを抜け、車の走っていない道路を走り、ぽつぽつとある民家の前を通り過ぎていく。五分おきくらいにポーンと停留所の近いことを知らせるアナウンスがかかる。車窓の景色の緑の占める割合が大きくなっていくたび、アナウンスの頻度は延びていった。それを上の空で聞いていた。  バスの独特の腹に響く振動は心地よく、バスが揺れるたびおれは眠気に襲われた。  新幹線と在来線を乗り継いだ上に、おれひとりしか乗車していないバスに揺られること一時間、ようやく目的地についた。眠い目を擦りながら始発の電車に乗ってきたのに、到着はいちばん暑くなる時間帯だった。時刻を確認して、おれはげんなりとする。それでも運転手に会釈をして運賃を払いバスを降りると、冷房に慣れたからだは途端にむっとした暑気に包まれる。  頭上は相変わらず雲一つない晴天で、さらに足元の割れたアスファルトが日差しを反射する所為で、熱の逃げ場がない。その上ジージージジジと鳴く蝉の声がそこら中から聞こえてくる。聴覚も暑気に侵される。 「暑い」  またおれは呟いた。暑くなると、人間はそれしか言えなくなるのかもしれない。しかしその声も、四方から降り注ぐ蝉時雨にかき消されそうだ。なぜ蝉はこんな暑い中、そんなにも鳴けるのだろう。やはり昆虫とはわかり合える気がしない。  改めてこれから向かうべき方向を確認する。一面鬱蒼とした緑だった。これは十年前よりもずっと大変そうだ。不揃いの石段は伸び放題の雑草で埋もれているし、左右からも樹の枝が伸びている。その青々と繁る緑の中に、時折剥げた朱色が見える。鳥居だ。この先は確か神社だった。 「はぁ」  一度溜め息を吐く。諦めてこの石段を上らなければいけないのだろう。そもそもおれの目的地はこの鳥居の先だ。  山登りの装備と言って遜色のない準備をしてきて正解だった。靴もスニーカーではなく、登山靴だ。それで一歩、草木の鬱蒼と茂る石段へ踏み込むと、ジージー、ジジジと蝉の鳴き声も大きくなる。すぐに額に汗が浮く。 「は、」  日頃大して運動をしていないおれは、ここにきて自身の体力のなさを実感した。幅も狭く、高さのそろっていない石段は、脚にくる。背負っているリュックも決して軽くはない。思わず見上げると、両脇から伸びた木々の枝葉と、ところどころ朱色の塗りの剥げた鳥居が目に入る。  斜面に沿って伸びる石段の三分の一も上った頃には、引き返そうか、とまで思ってしまう。  弱気な思考が脳を占拠する前に、振り払ってしまう。太陽の熱を吸収した黒髪が温かい。そして改めて残りまだ何段も続いている石段を見遣る。  おれは十年前に会った、君にまた会いに行く。  そう言ったらと、格好いいだろうか。暑さにやられた頭でそんなことを考える。けれどおれはもう君はいないんじゃないかと思っている。そもそもあのとき君に会えたことが不思議だ。 「   」  君の名前を呼ぼうとした。もしかして返事が返ってくるんじゃないか、なんて思ったりした。けれどおれの口の中で呟いた君の名前は、一層大きくなった蝉時雨にかき消される。そもそも君は本当にいたのだろうか。  また、あの俳句が頭を過ぎる。君は、たまたまおれに掬われた夜店の金魚だったんじゃないだろうか、なんて思う。思い出はどんどん美化されていくから、もう君を正確に思い出すことはできない。  夜店の金魚 すくはるるときの かがやき
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