1 部族の受難

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1 部族の受難

 わたしたちの部族が雨に降られ続けてから、700年になる。 〈底抜け世界〉は決してやむことのない雨に年中さらされている。わたしが生まれてこのこた目にしたことのある光景は、薄靄にけぶった一面に生い茂るシダ植物の海、海、また海。これだけである。  たぶん、これからもそうだろう。  行軍が始まった700年前、部族は50人を超える巨大なキャラバンだったのだが、敵対的な環境に一人、また一人と落伍していき、いまではわたしを含めてたったの4人にまで減ってしまった。  彼らはこう言い残して隊を去っていった。「俺たちはジャングルに埋もれる。おまえたちは永遠に彷徨を続けるがよい」。彼らはその場にとどまって定住生活をするのだという。脱出を諦め、死ぬまで雨に打たれ続けるだけの虚無に満ちた人生。わたしには考えられない。 〈底抜け世界〉にはわれわれ以外にもあまたの部族が捉われている。永遠の雨の牢獄に閉じ込められた彼らと遭遇する機会は滅多にないけれど、そんなときわたしは、雨よけの帽子のまびさしを黙って下げる。彼らも同じように答礼してくれる。それがこの世界の不文律だ。  部族は〈族長〉を先頭に、〈エルダー〉、〈担い手〉と続き、しんがりをわたしが務めている。族長が道を選び、〈エルダー〉が再確認し、〈担い手〉が切り拓き、〈レコーダー〉であるわたしは道を記憶する。そうやってここ100年あまりやってきた。  爆発的に繁茂するシダ植物が途切れ、円形の小広場にたどり着いたタイミングで〈族長〉が片手を挙げ、休憩を宣言した。今回の行軍は長かった。3日間はぶっ通しで歩いている。  部族のメンバーは車座を作り、袖や裾をまくって互いの身体をチェックし合う――今日も大漁だ。衣服で全身を覆っているにもかかわらず、血を吸って中指ほどにも膨張したヒルが何匹も食いついている。体表は粘膜状でぬめぬめしており、色はこげ茶色、腕、足、首筋、ところかまわず噛みつかれていた。  濃度の高い塩水を振りかけてヒルを残らず浸透圧によって殺し、ようやく人心地がついた。全員がいっせいにため息を漏らし、ぬかるんだ地面に腰を下ろす。 「俺は降りる」だしぬけに〈族長〉が宣言した。  彼に視線が集中する。代表でわたしが問いかけた。「降りるとは?」 「今日限り金輪際、俺はこれ以上歩かん。いつ終わるんだ、この責め苦は。700年だぞ。700年、来る日も来る日も雨に打たれ、ヒルに食いつかれ、腐った果実を食って下痢便を漏らす。なんなんだ、これは?」 「でもあなたは〈族長〉なんですよ」と若い〈担い手〉。「あなたが降りたら誰が部族を導けばいいんです」 「知らんな。誰でもやりたいやつが勝手にやればいい」  年齢的に言えば〈エルダー〉が後任になるだろう。わたしは老人へ視線を移す。「やってくれますね?」 「なぜわしがそんな真似をせにゃならんのだ」 「それがぼくたちに課せられた使命だからです。ろくでもない〈底抜け世界〉からいつか抜け出す。そのために700年も歩いてきたんだ」 「〈レコーダー〉、おまえさんは抜け出したいのか?」〈エルダー〉翁の瞳には生気が感じられない。「仮にここから脱出したとする。雨音のしない世界へ出られたとする。わしはたぶん、落ち着かんだろうな。雨音が恋しくなる気がしてならん」 「しかし――」 「もういいよ、いこ」〈担い手〉がわたしの腕を掴んで引っ張る。「あたしたちは諦めない。そうでしょ?」  わたしは彼女に引っ張られながらも振り返り、二人に呼びかけた。「〈族長〉、〈エルダー〉、本当に降りるんですね?」  二人は顔も上げなかった。ぐったりと頭を垂れて座り込む姿は、薄靄にけぶるシダ植物と同化しているように見えた。瞳は色を失い、どんよりと淀んでいる。それは魂を失った抜け殻であった。  この瞬間、わたしはなし崩し的に〈族長〉に就任したのである。
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