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娘の話
白いドアの前に立ち、深呼吸をする。出来るだけ元気に、明るい声を出せるように。
「こんばんは!」
「こんばんは、美奈さん。お仕事お疲れ様でした」
看護師の川田さんが作業の手を止め、私を振り返る。
「宮田さーん。美奈さんが来てくれましたよー」
川田さんが母に声をかけてくれる。だけど、母からの反応はない。落胆する気持ちを押し殺し、母のそばに寄る。
「お母さん、こんばんは。今日も元気? 私も元気に仕事してきたよ。月末でちょっと忙しいけどね……」
荷物をベッド脇の棚の上に置き、母の腕をマッサージしながら言葉をかける。
母が倒れたのは、クリスマスの夜だった。別の日なら、こんなことにはならなかっただろう。いつもは夕方に帰宅している高校2年の妹の美憂は、終業式の後、そのまま友達と遊びに出かけた。年末で忙しい私と父は、残業で遅くなった。
午後7時頃。美憂がキッチンに倒れている母を見付け、すぐに救急車を呼んだ。一命は取りとめたものの発見が遅かったせいか、低酸素脳症になってしまった。あれから2ヶ月経つが、母の意識は戻らない。
「じゃあね、また明日来るから。明後日は土曜日で、お父さんも美優も来るからね」
川田さんに挨拶をして、帰路に着く。
「ただいま」
「おかえり」
キッチンに顔を出すと、制服にエプロンを着けた美憂が、何かを炒めていた。
「今日の晩ごはん何?」
「野菜炒めとコロッケ」
美優の手元を見ると、多少不揃いながらも色とりどりの野菜が炒められている。コロッケは、近所のスーパーで買ってきたものだろう。
「何か手伝おうか?」
「別にいいよ。もうすぐ出来るし、着替えてきたら」
「ありがと」
美憂は嫌な顔ひとつしないで、家事をこなしてくれている。
母が倒れてすぐは、家が荒れ放題になった。ほとんどの家事を母がしてくれていたのだから当たり前だ。話し合いの結果、父は仕事、私が母のお見舞い、美憂に家事をお願いすることになった。
「お父さん、今日も遅くなるから先に食べててって」
「分かった。ご飯よそうね」
炊飯器を開けると同時に、テーブルに置いたスマホが着信をつげた。食欲をそそる匂いに後ろ髪を引かれながら炊飯器の蓋を閉じて、スマホを手にとる。電話の相手は、母が入院する病院。嫌な予感を感じながら、通話ボタンをタップする。
「もしもし……」
落ち着いた女性の言葉を理解した瞬間、体中の力が抜けて、スマホが手から滑り落ちた。
「お姉ちゃん。どうしたの?」
美憂に問いかけられながらも、私はしばらくの間、動くことも声を出すこともできなかった。
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