第一章 澤村剛志

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 三日前、南アルプスの山岳記事を書く為に山へ入った。予定を上回るスピードで順調に縦走してきた。天候に恵まれていたから良い写真がたくさん撮れた。この調子なら来月の紙面を賑わす事が出来そうだ。気分は上々だった。  昨夜は山頂直下のテント場でひと晩を過ごした。テントの天井からクリップをぶら下げ、そこに日向子とのツーショット写真を挟む事が習慣になっている。三年前の夏、鎌倉の海で撮影した写真、俺と日向子は海で出会った。  俺たちはお互いを何気なく意識し、そんな瞬間が何度か重なって恋に落ちた。俺は彼女の笑顔に惚れた。日向(ひなた)の子と書いて日向子、名前がピッタリとハマる明るく元気な女性だった。  彼女は海辺のカフェで働いていた。出会った日から、その夏が終わるまで毎週の様に俺は通い、夏の終わりに告白をした。彼女の雰囲気には、向日葵が似合う、そう思って花束をプレゼントした。本数は11本、向日葵の花言葉は本数によって変わる。11本の向日葵が意味する花言葉は、最愛、だそうで、これを教えてくれたのは、妹だった。  写真の中の日向子はいつものように笑っている。日向子の笑顔を見るにつけ、生きている事を実感する。だからいつもこの写真を懐に偲ばせ、テントに入ったら、目に付く場所へ下げておくのだ。必ず帰る、と誓う為に。 「山を愛するのは良いが、山に愛されては駄目だ」  山で命を落とした先輩の口癖だった。先輩は山に愛されてしまい、山から帰して貰えなかった。俺は必ず日向子の元へ帰る。その言葉を心に刻む。  その晩は風の強い夜だった。だからいつもよりも慎重にテントを設営した。登山を開始した日から今日まで天候が大きく崩れる事は無かったが、下界に雲が広がっている事は度々あった。だから局地的に大雨が降っているところがあったかもしれない。それでも行程に影響を及ぼす事は無かったし、この後もきっと大丈夫だと思う。  夜は湯を沸かしてインスタントラーメンを食べた。たっぷりとバターを落としたコッテリ味の味噌ラーメンを啜り、最後の一滴までスープを飲み干した。  特別な事など無かった。いつもと同じような手順で食事を済ませ、寝袋に入って目を閉じる。山で過ごす何も変わらない夜だった。  目を閉じて下山後の事を考えた。山を降りたら、真っ先に日向子の元へ帰る。いやこの分なら一日早く降りられる。ならば、あそこへ寄っていこう。日向子を連れて訪れる、特別な場所を最終確認しておくのだ。  この夏、せっせと足を運んで築き上げた特別な場所。そこへ着いたら日向子には目隠しをして貰う。日向子は驚きながらも、ワクワクするに違いない。俺が日向子の手を引いてゆっくりと歩き、そこへ立たせる。日向子の後ろに回って、目隠しを外す。  日向子の驚く顔が目に浮かぶ。そして俺は耳元で囁く、結婚しよう、と。  これまでに何度も思い描いてきた光景だ。その瞬間が待ち遠しい。待ちに待ったその時をもうじき迎えられる。そんな事を考えながら、眠りに吸い込まれていった。
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