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落下した瞬間の事は覚えていない。気が付いたら、身体が全く動かなかった。脚が使えなければ腕で、腕が使えなければ手で、それでも駄目ならアゴで、何としても動き続けて、窮地を脱しなければならない。諦める事は死を意味する。しかし、自由に動かせるところなど、ひとつも無かった。
今の俺には頭で思う事しか出来ない。日向子との思い出、そしてこれからの事。幸せな日常を築き上げ、目の前にある小さな幸せを拾い集めて過ごす毎日、そんな生活が脳裏に浮かぶ。
日向子と一緒に居れば俺は幸せだ。彼女の笑顔を見られるだけで心が癒される。時に甘え、時におどけ、そして常に親切で、誰からも愛される日向子。俺はそんな日向子を誰よりも愛している。
目の前の視界が霞み、頭の中に黒い霧が掛かった。考えている事が途切れがちになって、今何を考えていたのか思い出せなくなった。何か大切な事を考えていた気がする。大切な事、大切な人、大切な思い出、大切な未来……
一瞬、意識が飛んで、再び蘇った。
そうだ、日向子だ。愛する日向子の事を考えていたのだ。日向子との思い出、日向子との未来。二人で手を繋いで歩く一本の道。道の先に広がる景色、これから二人で見つめる世界…… 奪わないでくれ、俺の大切なものを……
ここで死ぬ訳には行かない。俺は日向子を特別な場所へ連れて行かなければならないのだ。
誰か……
誰か、俺に気付いてくれ。崖の下で横たわっている俺の存在に。
死にたくはない。俺にはまだやる事があるんだ。
日向子に思いを伝えなければ……
風が吹いた。
遥か彼方の頭上から、小石が落ちる音が聞える。
誰か……
また意識が遠のく。
何か柔らかいものに包まれているような不思議な感覚。
俺の身に何が起きているのだ?
早く帰らなければ……
日向子のところへ……
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