3.水と金魚

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3.水と金魚

 ようするにあれが聖の答えなのだろう。  きっと明日から聖は柊を避けるに違いない。  胸の軋みとともに柊はそう思っていたが、その柊の予想に反し、聖の態度は翌日も変わらなかった。  翌日も翌々日も、そのまた次の日も。一週間経っても。  それどころか、普通に家に訪ねてさえ来る。今日もそうだ。  柊は内心の動揺を押し隠し、ちらりと横目で聖を盗み見る。聖は何をするでもなくぼんやりと窓の外に広がる庭を眺めている。  いつも通りの、何を考えているかわからない顔で。  静かすぎる部屋で二人でいると、自分の心臓の音を彼に聞かれてしまいそうだ。音楽でもかけよう、と立ち上がりかけたとき、あれ、と小さく聖が声を発した。 「あれ、金魚。どうした?」  問われて柊は聖の視線の先を辿る。彼の目はまっすぐに飾り棚に向けられていた。  そこにあるのはガラスの金魚鉢。柔らかい曲線を描いた半球体のそれには、金魚はおろか、水もなにも入っていない。ただのガラスの置物の顔をしてそれは飾り棚の上に鎮座していた。 「死んじゃったんだ。一昨日」  短く言い、柊は庭へ顎をしゃくる。示された先を聖の目が追う。こんもりとそこだけ色の違う土の小山を目にした聖が痛まし気に目を細めた。 「お前にもらったのに、ごめんな。死なせて」  低い声で言うと、聖はゆるゆると瞼を開き、柊の顔を見た。  いいよ、とも、お前が謝ることじゃない、といった慰めの言葉一つさえ言わないいつも通りの沈黙の貴公子の顔から、柊は目を逸らす。  あの金魚は五年ほど前、聖からもらったものだ。近所の夏祭りに行った聖が、その日風邪をひいて祭りに行けなかった柊にお土産にとくれたものだった。  もらった金魚を柊は丁寧に世話した。透き通った水の中、大きな赤い尾ひれを揺らした金魚がゆらゆら舞うのを見ているだけで、なんだかその日起こった嫌なことも忘れられる気がずっとしていた。  その金魚が死んだ。  このタイミングで訪れた金魚の死を柊は苦しく思っていた。あの金魚は寡黙で感情表現がとことん下手な聖が、柊のためだけにくれたものだったのだから。聖からの親愛の証のようなものだと柊は感じていたから。  けれど柊からの告白の直後、金魚は死んだ。  これまでの絆のすべてが崩れてしまうことを予言しているかのようだ、と柊は思っていた。  だが、今のところ絆は断ち切られようとはしていない。  それどころか聖は今日も柊の隣にいる。その理由を想像してみて、柊は一つの結論に達した。   おそらくは、聖が今の柊との関係をとても気に入っているからなのだろう。  もともとが寡黙な聖だ。面白くない奴、と言われることも多い。だが、柊は聖に特別な感情を抱く前も聖のことをそんな風に思ったことは一度もない。  むしろ、一緒にいて心地よいと思っている。なにも話さなくても気にならず、お互い同じ空間にいながら、別々のことをしていても、なんとなく安心できる。そんな相手なんてそうはいないものだ。そして聖も同じ感覚でいるだろうことは、これだけ長く顔を突き合わせていれば自然と伝わってくるものだ。  柊にとって聖がそうであるように、聖にとっても柊は安らげる人間ということなのだろう。  だからこそ、あの雨の日の「好きだから」はお互いにとってあってはならなかった。  あの日の自分の行動と発言を柊は猛烈に後悔しているし、聖も、あれさえなければ、と思っているのだろう。  いや……あれさえなければ、というよりも、なかったことにしよう、と思って動いていると考えた方がいいのかもしれない。  だからこそ、彼は、聖は柊を避けない。普段通りの顔で接してくる。  胸の痛みを感じないと言えばうそになる。しかし考えてみれば、それは柊にとっては願ってもないことなのかもしれない。  思いは叶わない。叶わないけれど、これからも聖の傍にい続けることはできる。  どれほど好きだと思っても、どれほど触れたいと思っても、その願いは叶うことはないけれど、それでも彼を失わずにはいられる。  だとしたら、それはなにより喜ばしいことじゃないのだろうか。  金魚はもう、いなくても。  そうだ、そうに違いない。  柊は必死に自身の心に言い聞かせてから立ち上がる。気分を変えるために台所まで飲み物を取りに行こうとした、そのときだった。 「外に、置いていい?」  ふいに聖が尋ねてきた。え? と首を傾げる柊の横から聖はすいと立ち上がる。そのまま部屋を横切り、飾り棚に手を伸ばすと、空っぽの金魚鉢を持ち上げた。 「あの濡れ縁のとこ、置いていい?」 「……なんで?」  問いかけた柊に聖は背中を向ける。縁側へと向かう聖がこちらを見ぬまま、静かな声で答えた。 「まだこの中、泳いでいる気がしたから。雨水だけど、水入れてやりたい」  言われて柊は口を噤む。  金魚はもうどこにもいない。躯は庭に葬ったし、金魚鉢の中はからっぽのままだ。  けれど柊は。鉢を片づけることができぬままでいた。  理由は水もなにもない金魚鉢の中に金魚の赤い尾ひれを無意識に探してしまっていたから。  もういないのに、いるような気がしてしまっていたから。  その同じ感覚を、聖も持ってくれていた。  一度押さえようとした鼓動が、再び胸を叩いた。  聖が濡れ縁に金魚鉢を置くと、少しずつ激しさを増し始めた雨にガラスの底が叩かれ、ぱちぱち、と乾いた音が響いた。  このままだと室内に降りこむかもしれない。窓、閉めるぞ、と言いかけた柊は、そこで言葉を飲み込んだ。  濡れ縁を見下ろすようにして、窓辺で聖が膝を抱え座り込んでいた。 「なに、見てる?」  尋ねながら柊は聖の横に佇む。くせのない髪が生えた頭頂部に手を触れたい衝動を押さえて尋ねた柊を振り仰ぐことなく、聖がぽつりと答えた。 「水。たまっていく」 「ああ」  底に当たっていたぱちぱち、という雨音が、ぴとぴと、に徐々に変わっていくのに気づき、柊は軒先を見上げた。 「雨、強いからな。すぐ水もたまる」 「確かに強いね」  聖の呟きにふっと顔を彼の方に戻すと、俯いて金魚鉢の中を眺めながら聖が言った。 「強ければ早くたまるし、弱ければゆっくりで。どっちがいいのか、とかいろいろ考えていたけれど」 「聖?」  名を呼ぶが聖はやはり俯いたままだ。心配になった柊は腰を曲げ、聖の顔を覗き込んだ。 「なにかあった?」 「あった」  呟いて聖はすうっと目を上げる。首を巡らせた聖の黒い目が、まっすぐに柊を捉えた。 「柊に告白された」  絶句した柊を聖は見据えたままなにも言わない。柊はようよう息を吐き、ぎくしゃくと口を開いた。 「あれは、ごめん。でもいいから。俺は今のままで……」 「水がないと金魚は生きていけないよね」  唐突にこの場の流れにそぐわない言葉が投げ込まれる。固まった柊から目を逸らし、聖は再び金魚鉢に目を落とす。  ぴとぴと、と頼りない音を立てていた雨音が、ぴちゃりぴちゃりと水分を含んだ音となって空気を濡らす。 「俺は金魚みたいなものだって思ってた。金魚の俺には水が必要で……。柊は俺にとっての水みたいなもので。ずっと当たり前にあるもので。だけど」  ぴちゃり、ぴちゃり、と金魚鉢にたまっていく雨水の表面を、さらなる雨が叩く。 「水は零れた。全部壊して金魚を投げ出して」 「ちょっと待った! 投げ出すってなに。そんなつもりは」 「なくても柊は俺に好きだと言った」  言い返され、柊は声を失う。  やはり聖にとって柊からの告白はこれまでの関係を根底から崩す、あってほしくないものだったのだ。  ごめん、と柊は声を絞り出す。聖はなにも言わない。雨音はぱちゃぱちゃ、と響き続ける。 「悪かった。その、聖がもう俺と顔を合わせるが嫌とかそういうなら、俺は」  言いかけた柊の手がそのとき、ふいにぐいと掴まれた。そのまま強引に引っ張られ、へたりこむように聖の隣に腰を落とす。唖然として目を見張る柊に、見て、と聖が言った。  指さした聖の指の先、三分の一ほど水がたまった金魚鉢が柊の視界に映った。 「からっぽだったのに水、たまってきてる、もう」 「そう、だな」  聖の言いたいことがわからない。曖昧に頷くと、柊の手を掴んでいた聖の手の力が強くなった。え、と彼の顔を見て柊は息を呑んだ。  聖はこちらを見てはいなかった。ただ、いつもほとんど染まることなくそこにある彼の白い頬が赤く染まっていた。 「全部零れたって思ってたけど……好きって言われてからなんか落ち着かなくなってしまった」  俯いた聖の少し長めの前髪がさらり、と落ちて彼の目元を隠す。その前髪の影で聖が必死に口を動かすのが見えた。 「水が音を立ててたまっていくみたいに……心に柊が増えていって、どんどん離れがたくなった」  その声が、金魚鉢の中、水面を短い間隔でぱしゃぱしゃぱしゃ、と叩く雨音の間で震えた。  とっさに握られたままの手から聖の手を解いたとたん、ふっと聖がこちらを見る。一度離れた彼の手を逆に掴んで引き寄せると、聖の体が傾いた。  過たず落ちてきた彼の体を、柊は祈るように抱きとめる。  突き飛ばされるかもしれない。抱き締めながらもそれでも不安で心が痛くなったが、拒絶はやって来ず、代わりに訪れたのは柔らかく柊の体に回された腕の感触だった。  安堵と喜びに細く息を吐く柊の耳に、聖の言葉が蘇る。 ……まだこの中、泳いでいる気がしたから。    いないはずの金魚。二人を繋いだ赤いその。  けれど自分にはその赤い姿が見えていた。同じように聖にも。  それだけではない。  今も響く激しい雨音に柊は耳を傾ける。  この雨音もまた、自分達を繋いでくれたものかもしれない、と柊は思う。  あの日響いていた、糸のような雨が地面に落ちかかる音。あの音によって教室が満たされていなければ、柊は聖に触れようなどときっと永遠に思うことはなかっただろう。  また、今、金魚鉢の中にたまりゆく水を叩き続ける大粒の雨の音。激しさを増しながら急激に空気を変えていくこの雨音がなければ、聖は柊の思いを受け入れようとはしなかっただろう。口下手な彼が必死に思いを口にしようとしてくれることもまた、なかったかもしれない。  そう思ったら、この雨音のなんと愛しいことか。  思わず微笑んだ柊に、どうした? と腕の中から聖が問う。その聖の耳元で、柊は囁いた。 「雨、俺、好きだな、と思って。この音も」  聖が耳を澄ませる気配がする。言葉がなくても顔を見なくても、彼のことが伝わってくるのが嬉しい。体の中にじわりと広がる温もりをそっと抱きしめる柊の耳に、そうだね、と返す聖の声が聞こえた。   「でも、俺は雨音も好きだけれど、柊のことも」  必死に続けようとしてくれた声が一層強さを増した雨音によって掻き消される。なんだよもう、と唇を尖らせながらも柊は笑った。  まあ、いいか、と思えたから。  聞こえなくても、聞こえた気がしたから。  濡れ縁の上、からっぽだった金魚鉢に水が満ちていく。  落ちる雨の雫が幾重にも波紋を刻む中を、ゆらり、と赤い金魚の尾びれが翻り、消えた。
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