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2.止まった時
あの日、部活を終えて教室に戻ると、なぜか隣のクラスのはずの聖が柊の席で寝ていた。
柊の家と聖の家は非常に近い。とはいえ登下校を共にしているというわけではない。にもかかわらず聖がここにいる。ということは。
ちらりと窓の外を見、柊はため息をつく。
おそらく、また傘を忘れたのだろう。
窓の外では柔らかいながらも傘なしではきつい雨が降り注いでいた。
やれやれと思いながら、柊は聖の眠る席の前の席の椅子を引き、腰を下ろす。
しとしとと雨音だけが教室を満たしていく。
その中で聖は眠り続けている。雨音を子守歌代わりにして、片腕を枕にして、顔を窓の方に向けたまま。
おい、起きろよ、そう呼びかけようかとも思った。でもあまりにも気持ちよさそうに寝ているから、それに、あまりにも……無防備だから。
そこまで思ってから、柊は頭を一振りし、急に狭くなった胸から注意深く息を吐いた。
その密やかな吐息の中にさえ、覆い隠せぬ自身の心が滲んで見えて、柊を暗澹たる気持ちにさせる。
伸ばした腕に片頬をつけ、長い睫毛を伏せた彼の寝顔を柊は見下ろす。
警戒心も何もなく、眠り続ける彼の顔を。
……いつからだったのだろう。聖の顔を見ていると心が騒ぐようになったのは。
いつからだったのだろう。聖のいつも冷たい顔がわずかに綻んだとき、胸が温かくなるようになったのは。
いつからだったのだろう。こんなにも、触れてみたいと思うようになったのは。
そんなことをしてはいけない。そう思うのに、彼の瞳が閉ざされていることをいいことに柊はそろそろと手を伸ばす。
眠る彼の髪に伸ばした指をそうっと触れる。癖のない髪が指の間をさらりと滑り落ちていく。
窓の外から響くのは、細く密やかに地面を叩き続ける雨音。その雨音に引きずられるように、心臓がことことと音を立てる。
聖の髪に触れた柊の指先をなぞり、生ぬるい風が通り過ぎていった。
雨音だけが響くこの部屋の中、自分を包むこの世界から時が失われたような錯覚を覚えた瞬間、柊の中にわずかばかり残っていた自制心が切れた。
そうっと身を屈め、あらわになった滑らかな頬に唇を寄せる。
ほのかな体温が唇に、そっと、触れた。
「なんで」
唐突に雨音を破って響いた声にはっとして柊は身を起こす。机の上、相変わらず片腕に頬をつけ、窓の方に顔を向けたまま、聖が目をすうっと開けた。
「なんでそんなことするの」
沈黙の貴公子らしく、それ以上彼はなにも言わない。静寂だけが二人の間の空気を埋める。
しかし空気の静けさとは裏腹に、柊の鼓動は限界を迎えていた。
この場を逃れるうまい言い訳を必死に考えた。考えて考えて。
そして、諦めた。
「好きだから」
聖はぽかりと浮いたその言葉を耳にしても、姿勢を崩さず顔を窓の方に向けたままだ。開け放した窓の向こうを落ちていく銀色の雨の雫を、ただ黙ったまま瞳に映している。
実際には短かったのかもしれないが、柊にとっては永遠とも思える時間が流れたころ、ゆらりと聖は身を起こした。
そのまま、彼は無言で隣の席に放り出してあった鞄を手に、教室を出て行った。
挨拶の一つもなかった。
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