通り雨

1/1

2人が本棚に入れています
本棚に追加
/6ページ

通り雨

 ハッと体を起こした。 「こ……ここは?」  呟きは誰にも届かなかった。  白い天井。寝心地の悪いベッドを囲むカーテン。そこまで見てわかった。 「病院よ」  カーテンをすり抜け、あじさいが姿を現した。 「何があったか覚えてる?」  そう聞かれて記憶を辿ってみようとした瞬間、酷い頭痛がした。力なく首を振ると、あじさいは小さく「そうよね……」と、俯いた。 「……説明するわね」  そう、あじさいは語り出した。  霧雨の日。 「でも、『そのうち』死ぬんでしょう?」  ナツキは何も答えなかった。あじさいは続けた。 「好きな人の死に傷心している。と、なんだかんだと理由をつけて死にたいアピールして本音を隠してる」  ナツキは怯えた表情を引き攣らせながら後退り 「あ」  ──落ちた。 「思い……出した」 (全部、思い出しちゃった)  あの時言われたことは全て図星だったのだ。今まで言語化できなかった……いや、言語化を避けてきたことだったのだ。それがわかって、それがとても恐ろしくて。避けられない理不尽に対しての行き場のない怒りも、恐怖も、全部全部どうしようもなかった。  雨と一緒に流れたものはきっと大事なものだった。 (死なないで……って)  あの都合のいい空耳も、雷の音に全部かき消されたと思っていた。  いつか言いかけた『誰かに──』の続きが聞けたのか確認する勇気はないけど、それでも抱いていたい想いも、未来への願望も何もかも雨の中に溶けてしまいそうで怖くて。胸の奥底に隠したのだ。 「ごめんなさい」  あじさいは俯いて肩を震わせていた。 「思い出してほしかった……アタシの我儘で、危うくアンタを殺しかけた」  その目からは、はらはらと雫が降っていた。    そうだ。あれはいつかの病院で──。 「死ぬの?」  すれ違った青年は薄い笑みを浮かべていた。私は、『そのうち』と答えた。青年は「……僕も」と、声をあげて笑った。 「死んだら、あの雨雲のトンネルを通りたいんだぁ」  青年は、そう言っていた。  変な人だな。と、思うのと同時に何故か、興味を惹かれた。  そうだった──。  次の来診時に青年はもういなかった。看護師たちがそう喋っていたのを聴いた。  そう、だったのだ。  不意に、いや、唐突に──カーテンが開いた。 「アンタは、青春を謳歌してきなさい。……せっかく、可愛いんだから」  あじさいが身を屈めた瞬間、額にふんわりと温かい風が吹いた様な感触がした。 「な、に……」  我に返った時にはもう、あじさいの姿はなかった。ぼんやりと窓を開けて──私は弾かれた様に駆け出した。  息をきらして駐車場から見上げた空には、小さな小さな晴れ間があった。あっという間に雨雲に埋もれたそれを、看護師が慌てて傘を持って走ってくるまで私はずっと、ずっと見上げていた。
/6ページ

最初のコメントを投稿しよう!

2人が本棚に入れています
本棚に追加