0人が本棚に入れています
本棚に追加
「今日は涼しいですね」
「え?」
「夏の夕方にしては、過ごしやすくないですか?」
「はあ……」
「……」
「……」
「何してるんですか?」
「……」
「夕暮れにひとり、手ぶらでダムを覗き込んで」
「ちょっと……色々あって、気がついたらここにいました」
「……何もかもが嫌になったときに見る、ここの景色って綺麗ですよね」
「…………あなたもですか?」
「死にたいんじゃなくて、生きることができそうにないんですよね」
「……そうかもしれないです」
「せっかくだし、散歩でもしませんか?」
「……まあ、そうですね」
「この近くの遊歩道、私のお気に入りでよく散歩してるんです。良ければ案内しますよ」
「じゃあ、はい。お願いします」
「……」
「……」
「ここの近くの人?」
「いや、都心から来ました」
「わざわざ遠くから?」
「はい。ネットで自殺スポットを調べたら、ここが有名だとわかって」
「うん」
「それで、死を目の前にする気持ちを体験すれば、今、自分がどうしたいのかわかるかなあと」
「なるほど」
「それで、観光するような気持ちでここまできちゃいました。なんか、死のうと思えばすぐに死ねるもんなんだな、と思いました」
「人間ってあっさり死んじゃうんですね」
「そうですね」
「あ、綺麗な花が咲いてますよ。ほら、この道の先、ちょっと離れたところに花畑があるんです」
「そうなんですね。本当だ。木の隙間から見えました」
「今日は、ヒグラシの声がすごいなあ。都心はどうですか? 蝉、鳴いてますか?」
「そうですね……俺の住んでる地域では、昼間に聞こえますが、夜になってくるとあまりかもしれないです。ただ、俺が家をあまり出ないから、知らないだけかもしれませんが」
「そうなんですね。いつか、東京に行ってみたかったんですけどね。都会の蝉の声を聞くことはできそうにないです」
「あんな場所、良い所じゃないですよ。喧噪と雑踏にまみれた世界ですよ」
「そんな人々の音に飛び込んでみたいんです。生まれてからずっとここに住んでいるので、そんな、騒がしい世界を見てみたいんです」
「俺はこの静けさの方がずっと良いと思いますけどね。でも、行きたいなら、行ってみればいいんじゃないですか」
「私、体が弱くて、小さい頃からあまり遠くに行かせてもらえなかったんです。だから、中々勇気が出ないんですよね」
「そうだったんですか……大変ですね」
「ほら、どうです? とても綺麗な花畑でしょう」
「色々な花が咲いていますね」
「季節によって景色が変わるんですよ。いつ来ても、違う表情が見れます」
「へえ」
「あ、鳥がいる」
「どこですか」
「あの紫の花が咲いているあたりです」
「んー。お、本当だ。鮮やかな緑色ですね」
「あの鳥、たまにここで見かけるんです。あの鳥にとってもお気に入りの場所なのかもしれないですね」
「お気に入りですか」
「いいですよね」
「どこからか水の音が聞こえてきますね」
「こっちに行きましょう」
「え、そっちは遊歩道から外れてますよ?」
「見せたいものがあるんです」
「ここは、だいぶ草が湿ってますね」
「浅い川を渡るので、靴を……よいしょっと、脱いで、ください」
「川に入るんですか」
「川といっても、ちょっとした小川みたいな感じですけど、靴で入ると濡れちゃうので」
「脱ぎました」
「じゃあ、滑らないように私の手を掴んで」
「では、お言葉に甘えて、失礼します」
「そこの石の上を踏んでください」
「っと、けっこう滑りますね」
「気をつけて。そこの地面は踏むと沈むので、こっちです。ここですね」
「渡りきりましたね。いやあ、こんなことをしたのは子供の頃以来です」
「ふふふ、落ちるぎりぎりでしたね」
「大学を卒業してから、五、六年は運動していなかったので、体が思ったように動かないです」
「え! 失礼ですが、今、おいくつですか?」
「二十七です」
「お若く見えますねー。私、二十二なんですけど、同い年くらいだと思ってました」
「そうですかね。全然、気とか使わなくて良いですよ」
「わかりました。じゃあ、今まで通りの感じで行かせてもらいます」
「水の音が大きくなってきましたね」
「こっちです。ここも滑りやすいので気をつけて」
「ここもよく来るんですか」
「はい。この先に、私だけの秘密の場所があるんです」
「秘密の場所」
「はい」
「秘密の場所って、おっとーー」
「大丈夫ですか?」
「はい、あー、そういえばお名前聞いてなかったですね。俺は有一っていいます」
「美希です」
「美希さんは、運動神経が良いですね」
「そうですか? いつも来てるからこの道に慣れてるのかもしれないです」
「見えてきましたよ」
「おお……」
「……」
「……」
「どうです? 綺麗でしょう」
「こんな大きな滝を間近で見たのは初めてかもしれません」
「ここは数十メートルはあるのに、全然知られていないし、整備もされていないから観光客とか来ませんからね」
「生きている滝って感じですね」
「水しぶきが気持ちいいでしょう。夏になると、ここによく休みに来るんです」
「素晴らしいですね。この迫力が独り占めできるなんて」
「この場所は、遠くに行けない私の特等席なのかもしれないです」
「流れに吸い込まれそうな気持ちになりますね。水と一緒になってどこかへ流れて行けたらいいのに」
「それ、私もよく思ってます」
「仲間ですね」
「……では、そろそろ行きましょうか」
「はい」
最初のコメントを投稿しよう!