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この一件で、拓也が心配性だということが判明した。
木曜、金曜と、裕斗のバイトが終わる時刻に電話をかけてきて、今日一日変わった事がなかったか、不審な人物を見かけなかったかを、しつこく尋ねてきた。裕斗が何もないと答えても安心することはなかった。
土曜日は昼前に『WIND』に来店し、いつものようにランチに誘ってきたので応じたのだが、食事をしたあと拓也はすぐに帰らなかった。裕斗と一緒に店に戻って、店長お気に入りのソファに五時間も居座ったのだ。店に客が入ってくるたび、眼光鋭く彼らを観察していた。外出していた高井が戻って来たタイミングで、ようやく彼は店をあとにした。
その日の夜にも、拓也から無事を確認する電話がかかってきて、さすがに裕斗も辟易となってくる。
「もう大丈夫だって。インスタのコメントもオフにしてるし、あっちも諦めただろ」
「インスタで攻撃できなくなって、直接店に来る可能性もあるだろ。まだ警戒は解くなよ」
真剣な声で忠告され、裕斗は大人しく「はい」と答えた。拓也はけっこう頑固だ。自分の考えを簡単に曲げることはない。裕斗が根拠のある意見を発言しない限りは。
「明日は用事があるんだ。夕方から親族の食事会があって――閉店前に間に合うようなら行くから」
「――分かった」
どうせ明日も何も起こらない。そう思いながらも、口からは「ありがとう」が零れる。
必要以上に心配されるのは鬱陶しいのに、胸のあたりがこそばゆい。嬉しく感じている自分もいるのだった。
翌日は暴れ梅雨になった。
朝から湿度が高く、生暖かい風が吹いていた。たまに晴れ間が見えつつも、十六時を過ぎたあたりで、空が真っ暗になり、雷鳴が轟くようになった。次いで、スコールのような激しい大雨が降りだした。
クリエイターの発掘に行くと言って車で外に出ていた高井から、電話がかかってくる。
「こんな天気じゃ客も来ないだろうし、店閉めて良いよ。早く帰れよ」
「いえ、天気予報によると、すぐに雷雨は止むようです。止んだらお客さん来るだろうし」
勝手に閉店していたら、せっかく来てくれたお客さんに申し訳ない。
「もう降っちゃってるし。どうせなら降る前に連絡くださいよ」
「はは、そうだな。まあ、様子を見て決めろよ。早く帰っても、給料は一日分出すから」
それなら早めに帰ろうかな、なんて考えながら電話を切ったあと、裕斗は店のドアの前に立った。ガラス窓は雨で濡れているが、店が冠水する心配はない。地面と店舗のエントランスの間に、階段二段分ほどの段差と、店の占有スペースが設けられているのだ。そこにセール用のワゴンを置いているのだが、今は店内に避難させている。
それにしても外は暗い、黒い。夜のようだ。たまに稲光が起こって、近くでドンと、腹に響くような落下音が鳴り響く。
雨も激しいし、こんな状態では、外を歩く人間はまずいないだろう。止むまでは客ゼロか、と溜息を吐いたとき、ドアの向こうにずいっと男が現れた。傘は差していたが、びしょぬれだ。
一瞬驚いたものの、こんな悪天の中、来店してくれたことに感謝の気持ちが生まれた。すぐに彼を迎え入れる。
「いらっしゃいませ。こんな雨のなかご来店くださって、ありがとうございます」
丁寧にお礼をいって、そっとタオルを渡す。
男はめちゃくちゃ体格が良かった。身長は百九十あるだろうか。かなり顔を上げて話さなければならない。それに、肩や腕、胸板がガチガチに盛り上がっている。これは相当鍛えている。
軽く頭と服を拭いたあと、彼がタオルを返してくる。受け取ろうとすると、両手首をガシッと鷲づかみされた。
「ヒロさん、俺のこと、覚えてない?」
「へ? なにを……」
跡が付くんじゃないかと思うほど強い力で、手首を固定されている。じわっと嫌な汗が首筋に浮く。
「ナカバヤシイクオだよ。覚えてない?」
「いや……覚えてない」
男の顔をじっくり見てみる。が、全く覚えがない。知り合いじゃないと思った。
「同じ専門学校に通ってたイクオだよ」
「――あ、それって」
裕斗は声を上げた。急に思い出した。専門学校とガチムチで記憶が繋がったのだ。
「思い出したよ。――元気だった? 学校辞めちゃったんだよな」
なんとも決まずい。愛想笑いを浮かべたが、口元が引き攣った。
「そうだよ。辞めてフリーターになったけど、今はジムで働いてる。パーソナルトレーニングのトレーナーやってる」
「へえ。まあその体格なら納得」
とりあえずまともな会話が続くので、気持は落ち着いてきた。あとは、裕斗の手を離してくれれば――。
「あ――服買いに来たわけじゃない、よな? 俺に何か用?」
まさか本当に、マッキーと話題にしていた男がこうして現れるとは。
「ずっと恨んでたんだ、ヒロさんのこと。専門のときこっぴどく振られてさ。課題が全然手に着かなくて、退学することになって――ヒロさんのせいだと思ってた」
「それは逆恨みだろ! まったく俺は関係ないじゃん」
カッとなって言い返す。失恋ごときで退学するとは。裕斗には考えられないことだった。
「そうだよね……今ならそうだと思う。あの時の俺は軟弱過ぎた。だからヒロさんに振られたんだ」
「いや、それは違う」
はっきり否定する。この男の内面、性格なんて、ちっとも知らないのだ。
「じゃあ何で俺を振ったんだ。俺、すごくあんたのこと好きだったんだ。タイプだったんだ。いや、今もタイプだ。すげえ格好良い。卒業式のスーツ姿なんか、マジでもう」
感極まったように、イクオが息を止めている。涙目にもなっている。
「どうやって見たんだ? 卒業式の写真なんて」
式の間、プロのカメラマンが滞在していたのは確かだが。撮った写真を学校が外部に公開することはないはずだ。
「友達がLINEで送ってくれた。卒業式のあと、皆で集まって写真撮り合ってたんだろ?」
――ああ、あれか。
あの時は、カンパのサプライズがあったりで、テンションが高くなっていた。誰彼構わずに一緒に写真撮影をして、LINE友になっていた。
「で、どうして俺を振ったんだよ」
イクオがジトッとした目で見てくる。
「振ったっていうか、エッチを拒否しただけだよな? お前が迫ってきても応じなかっただけ」
「だからなんで? 三回したじゃん。嫌じゃなかったから三回もしたんだろ」
「あんまりシックリこなかったんだ、本当は。お前は、俺の好みじゃない」
あえてハッキリ言ってやる。さっさと諦めて帰って欲しくて。
「ひでえ、ヒロさん。だったら期待させないで欲しかった」
泣きそうな顔を呈しつつも、イクオは裕斗の手をしっかり握り込んでいる。
「――ごめん。そうだな。悪かったよ」
軽い気持ちで相手をしたのが悪かったのだ。全然タイプじゃなかったし、好きになれる可能性もなかったのに。そこは反省だ。
「じゃあ、最後にもう一回」
「はあっ?」
「あ、ソファがある。あそこで」
勝手にヤる場所を決めて、イクオが裕斗の手首を引っ張った。力が強すぎる。脱臼しそうだ。下手に抵抗しても、自分の手を傷めてしまう。留学前に怪我なんてとんでもない。
裕斗は大人しく、ソファまでついていった。逃げるタイミングは探りながら。
「フランスに留学するんだろ。その前に一回だけ」
「嫌に決まってんだろ」
裕斗をソファに押し倒して、体重をかけて覆いかぶさってくる。重い。重すぎる。イクオの全身が鉄アレイにでもなったみたいだ。このままだと圧死しそうで怖い。
「ヒロさん、付き合ってる人いるの? お客さんとか? インスタでも客と仲良くやり取りしてるよね」
悔しそうな声で聞いてくる。これにはピンと来る。
「インスタで誹謗中傷したのも、お前なのか」
「そうだよ。客に教えたんだ。ヒロさんがヤリチンだって知ったら、諦める子もいるだろうと思って」
手柄を報告するように、彼がにっこり笑う。
物凄い拗らせ方をしてしまったようだ。この男は。
「無駄なお喋りはこの辺にしておいてさ。さっさとヤろう」
荒い息を吐きながら、イクオが裕斗のカーゴパンツを片手で下げた。下着越しに萎えた性器を触られて、全身に寒気が走った。鳥肌も立った。
――やべえ、本当にダメだ。気持ち悪い。
突如、過去の自分と今の自分が違うことに気がついた。前は好みじゃない相手とだってセックスしていたのだ。それが今は出来ない。したくない。気持ち悪い。
「全然反応してないな」
シュンとした顔をして、下着越しに撫でさすってくる。
「イクオ、せめて店のドアに鍵をしてくれ。他の客が入ってきたら大変だから」
「ダメ。その間に逃げるだろ。それに、こんな天気じゃ誰も来ないよ」
少し苛立った口調になって、イクオが裕斗のパンツを脱がせにかかる。
「やめろ。マジで無理だ。勃たねえよ」
胸と脚に体重をかけられているせいで、裕斗が体を捩じっても、イクオはびくともしない。
「じゃあ口でしてあげるから。好きだったよね、フェラ」
――させた方が良いかな。その間に逃げられるかも。
そんな思惑を察知したのか、イクオが「もう少しこのままでいよう」と言い、全体重をかけて裕斗にのしかかってくる。ずっしり重い。ソファの座面が床に抜け落ちてもおかしくない。
「マジで圧死するからやめろ!」
精一杯腹に力を入れて叫んだとき、店のドアベルがチリンと鳴った。
――ナイスタイミング!
この際、客に見られても良い。この窮地を脱することができるなら。
誰か! と声を上げようとしたが、イクオに素早く口を塞がれて、叶わない。鼻まで圧し潰されて、息ができない。顔を左右に振り、両手両足をバタバタ動かす。が、ビクともしない。
「裕斗?」
拓也の声だ。
ソファは、売り場から少し奥まった場所にある。もっと室内に入ってこないと、自分たちの姿が見えない。
裕斗はソファの背もたれ部分に、体を思い切りぶつけた。ソファが揺れた。うわ、とイクオが慌てた声を発した。
「裕斗っ?」
駆け足でこちらにやってくる。イクオの手がようやく離れていき、裕斗は呼吸を繰り返した。下手したら窒息死していた。
ソファから体を起こして逃げようとしたイクオの前に、拓也が立ちはだかる。
「お前一体、何してたんだ」
ドスの効いた声だ。イクオを睨みつける目は、怒りで充血している。その迫力に圧倒されたように、イクオが「えー」とか「あー」とか情けない声で呟いている。もともとコイツは、ガタイの割に気が弱かったな、と思い出す。
「警察に通報しようか」
イクオの腕を掴みながら、裕斗の傍にやってくる。そこで拓也の顔色が変わった。怒りで燃えていたのに、急に青ざめたような。不思議になって彼の視線を辿る。
自分の下半身が丸出しになっていた。カーゴパンツと下着がソファの下に落ちていた。
「聞くまでもなかったな」
拓也がボトムから、スマホを取りだした。
「それは勘弁してくれよ。未遂だろ。ヒロさんも嫌がってな」
「嫌がってた! 抵抗してただろうが」
身勝手な言い分に腹が立って、イクオの声を遮る。
「お前のやったことは警察沙汰になる行為だぞ。二度とここには来るな」
顔も見たくない、とハッキリ告げる。これくらい言わないと通じないだろうから。
「ヒロさん……」
泣きそうな顔で、裕斗の顔を見つめてくる。
「いい加減、俺のことは忘れろよ。卒業写真も消せよ」
「それは嫌だ」と呟きながらも、イクオは大人しく出口に向かって歩いて行く。外に出て、店のドアを閉めるときに、名残惜しそうな顔をしてこちらを見ていた。犬みたいだと思った。
「良いのかよ、警察呼ばなくて」
拓也がソファの前で跪き、裕斗の下着とカーゴパンツを拾ってくれる。
「いいよ、未遂だったし」
「本当に? ヤられてないんだな?」
深刻な表情で聞いてくる。
「ヤッてないって。全然勃たなかったし」
「――勃たなくても出来るって言ってただろ。お前が」
拓也が裕斗の背中に腕を回し、起き上がらせてくれる。
「まあ、俺がウケのときはそうだけど」
ボクサーパンツを足に引っかけ、通そうとすると、拓也が阻止するように、裕斗の両膝に手を置いてくる。
「え? ウケのときはって――」
彼が混乱したような顔をしている。裕斗は思わず吹き出した。
「今回は俺がタチ。相手がウケ。分かる?」
「――あんなごつい奴がウケ?」
「そうだよ。昔、しつこく迫られてさ。抱いてくれってうるさくて。それで何回かタチやったんだよ」
「あいつを抱いてたのか」
「だからそうだって。人を見た目で判断するなよ」
拓也の動きが止まっている。呆然とした表情。また裕斗は笑った。
「――意外すぎだろ」
我に返ったものの、まだ複雑な表情のまま、裕斗の股間に手を寄せてくる。
「触られたのか」
「ちょっとだけ。反応しなかったけど」
「本当に?」
そういって、遠慮もなく拓也が触ってくる。まったく兆していない縮こまった性器を。
「やめろよ。こんなところで」
落ち着きのない声が出る。腰が震えた。そっと輪郭をなぞられただけなのに。
「反応するじゃん」
更に撫でてこようとする手を掴んだ。本格的に愛撫されたら、勃起してしまう。
「やめろって」
「じゃあ、ホテルに行こう」
「え」
「いますぐ抱きたい」
掠れた声。手の甲に口づけてくる、熱い唇。
その二点は、裕斗の官能を呼び起こすには十分だった。
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