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 翌日の午前九時過ぎ、裕斗は自分のアパートに戻ってきていた。  この一か月は、週に二回、『WIND』の定休日――それも日中だけ――しか、この部屋で過ごしていなかった。 キッチンの一口コンロを見てみると、薄くだが埃をかぶっていた。持ってきた雑巾で水拭きした。そのあと、シンクの下にある棚の中から、使っていない鍋やフライパン、食器を取り出してゴミ袋に入れた。  職業用ミシンを両手で持ち上げ、作業台から押入れの二段目――ロックミシンの隣に移動させる。これで、ミシンが二台並んだ。作業台は明日粗大ごみに出すので、これからはミシン掛けを押し入れで行うことになる。  畳に居座る、申し訳程度に折りたたんだ布団一組も、もう使わないんじゃないかと思う。朝と夜は毎日拓也の部屋で過ごしているのだし――そんな考えが過ったが、念のため置いておくことにする。  洗濯機、冷蔵庫、電子レンジ、テレビは、サイズを測ってから、リサイクルショップに電話をして、見積もりの依頼をかけた。四年しか使ってないので、小遣い程度の金額は入ってきそうだ。  その他諸々の手配を終わらせ、最後に部屋全体に掃除機をかけたところで、ドアチャイムが鳴った。  正午。約束通りだ。  玄関のドアを開けると、そこには友斗が立っていた。 「久しぶり」  二人は同時に言っていた。 「バレて以来だよね。元気だった?」  友斗が部屋に入りながら話しかけてくる。 「元気だよ。友斗は?」 「俺も元気だよ。あ、部屋、片付けてたんだ?」 「うん、もう留学まで一か月切ったから」 「そっか……本当にいなくなっちゃうんだね」  少し寂しそうな声でいう。目を伏せながら。  裕斗は友斗の顔から目を逸らして、「話があるんだ」と、前置きの言葉を紡ぐ。 「うん、だから来たんだし」  可笑しそうに笑って、友斗が畳の空いているスペースに座った。彼と対面する形で、裕斗も腰を下ろした。 「拓也といま同棲してる。まだ留学のことは言ってなくて、今日伝えようと思ってる。一年待ってて欲しいっていう俺の気持ちも」  捨てられないミシン二台も、拓也に預かって欲しいと頼むつもりだ、と捲し立てた。勢いに乗らないと話せなかった。  友斗は一瞬、ポカンとした顔をした。が、意味を理解したのか、すぐに陰鬱な表情になる。 「ああ――そう、そんなに進展してたんだ」  口を引き攣らせ、落ち着きなく瞬きを繰り返している。その態度から、裕斗は悟った。拓也は友斗に、自分たちのことを話していないのだと。 「拓也からは、どんな風に説明されてた?」  友斗に尋ねたあと、裕斗は唾を飲んだ。凄く嫌な予感がした。 「たまに店に会いに行ってるって話は聞いてた。ずっとそんな状態が続いてるって。だから何の進展もなく終わるんだと思ってた」  その話は嘘ではない。二人で海に行ってから一か月半はそんな状況が続いていた。  ただ、七月以降の話をしていないのだ。劇的に変化した自分たちの関係を。  ――友斗を傷つけたくなくて? 「裕斗の気持ちは分かったよ。でも、俺たちの認識には相違があるみたいだ」  少し落ち着きを取り戻したようだ。友斗の声が淡々としている。 「拓也は知ってるよ。裕斗が留学すること。入れ替わりがバレた日に俺が教えたんだ」  予想もしていなかった友斗の話に、裕斗はすぐ反応ができなかった。  ――知ってたのに、知らない振りをしてたのか? 拓也が? なんで?  理由が分からない。なぜそんなことをしたのか。  今思うと、あえて彼は、踏み込んで聞いてこなかったような気がする。  裕斗がどうしてフランス語の勉強をしているのか。お金を貯めるのに必死なのか。――こんなこともあった。裕斗のバッグに入っていたパスポートをたまたま見つけた時も、海外に行く予定でもあるのかと、尋ねてこなかった。 「なんで知らない振りしてるんだろう」  裕斗は友斗に答えを求めた。  彼は言いづらそうに「もしかしたらさ」と話し始めた。 「拓也は割り切ってるのかもしれない。裕斗がフランスに行くまで、セックスしまくれば良いやって」  実際どうなの? と友斗が目で伺ってくる。  セックスは毎日のようにしていた。でもそれだけじゃない。ちゃんと話もしていたし、食事を一緒に作ったりもしていた。セフレの扱いはされていない。 「あとはさ、拓也的に、こっちは留学の話なんて聞いてなかったって被害者面して、罪悪感なく別れられるから都合が良かったとか」  友斗が同情の眼差しを向けてくる。  どちらも違うと言いたいのに、喉が閊えて声が出ない。 「まあ、拓也の知らない振りに悪意があってもなくても――裕斗と遠距離恋愛は無理だよ。拓也は一年も我慢できない。会えない人を一年も想い続けるなんてできないよ」  裕斗に魅力がないとか、そういうことじゃないよ、と友斗が付け足す。 「今だから言うけど、拓也は俺と付き合っていたときに浮気してたと思う。未遂だけじゃなくて。俺にバレてないだけでさ」  それは裕斗も考えたことがある。本当に拓也が、半年間もセックスを我慢できたのか疑問だった。だって彼はセックスが本当に好きだ。絶倫でもある。裕斗もセックスが好きだから相性が合ったのだ。だが、違う部分もある。裕斗は浮気をしたことが一度もなかった。例え軽いお付き合いだとしても、相手を裏切る行為はしたくなかった。他の人としたいと思ったら、先に恋人と別れる。ちゃんと筋を通したい方なのだ。 「話変わるけど、裕斗は拓也とLINEしてる?」  本当に突然の話題転換だ。裕斗は首を横に振った。 「電話のやり取りしかしてない」 「そうなんだ……拓也は普段、LINEでやり取りすることが多いんだ。友達とも、今まで付き合ってきた人とも。電話だけの連絡って、記録を残したくないってことじゃない? LINEだと後々メッセージが証拠になるし」  友斗が更に、疑念を抱かせることをいう。  裕斗は床から立ち上がった。 「――拓也と話してくる」  本人がいない所で、ああだこうだと話していても埒が明かない。疑心暗鬼になるばかりで、良いことはない。 「そうだね、話し合ってよ」  友斗の口調は、他人事のようなそれだ。 「友斗はもう良いの? 拓也のことは――」 「まだ好きだよ」  即答される。ふいに友斗が、裕斗に強い眼差しを向けてくる。 「こんなことになるなら、頼まなきゃよかった」  初めて弟の本音を聞いた気がした。そして、初めて自分が、恋敵と認定されたと感じた。
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