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午後一時半に、拓也の部屋に着いた。彼はリビングのソファに座って、ノートパソコンで論文を執筆していた。
ただいまも言わずに、裕斗は拓也の傍らに立った。
「裕斗、お帰り。早かったな」
キーボードを打つ手を止めて、拓也が顔を上げた。いつものように、柔和な微笑を浮かべている。
「俺が留学すること、知ってたの」
なんの前置きもせずに、単刀直入に聞く。
え、と拓也が呟いた。すぐに返事が出てこないようだ。
「友斗から聞いてたんだろ」
強い声が出た。彼の顔に視線を定めた。
「――知ってたよ。九月に留学することは」
観念したように、拓也がため息を含ませていった。
「なんで知らない振りをしてたんだよ」
「裕斗の口から聞きたかったから」
座れよ、と拓也がソファの座面を叩いた。裕斗は彼の隣に座った。
「俺が言うのを待ってた?」
「そうだ。それが裕斗の誠意だと思ったから」
「――誠意って」
話が思わぬ方向に向かっている。
「裕斗に誠意を見せて欲しかったんだ」
拓也が真顔でいう。
「留学の話を自分からしないってことは、俺との関係を本気で考えてないってことだろ?」
口調には、いつもの甘さが一切なかった。
「いつ話してくれるのか、今か今かと待ってたんだ。今日言ってくれるつもりだった?」
「そうだよ。今日話そうと思って、その前に友斗に伝えたんだ。俺たちのこと」
「なるほど。友斗に俺たちの関係を伝えたんだな」
拓也の表情が少し和らいだ。
「拓也は話してなかったんだろ。友斗に」
それこそ、誠意がないと思った。裕斗と本気で付き合っている意識があるのなら、友斗に打ち明けておいて欲しかった。
「裕斗が俺に本気なのか確証が持てないのに、友斗に洗いざらい話すにはリスクが高いから」
「リスクって」
「俺と友斗は同じ研究室に所属してる。二年間ずっと顔を突き合わせていくことになるんだ。関係が悪くなりそうなことはおいそれと言えないだろ」
拓也の言うことは正論だ。嫌でも納得させられる。もうすぐ日本からいなくなる裕斗との関係を、わざわざリスクを冒してまで友斗に告げる必要はない。
「友斗に話してくれたんだな。嬉しいよ」
拓也が裕斗の肩を引き寄せようとする。反射的に裕斗は避けていた。
「怒った?」
「あんまり気分は良くない。俺の気持ちを試されているみたいで」
「それは悪かったけど――裕斗も俺を信用させてくれなかっただろ」
彼の責めるような口調に、理不尽な思いに駆られた。
「俺ってそんなに、信用できない人間?」
「今はそんなことないよ。でも、始まりが悪かっただろ。友斗と組んで、俺を騙していたんだから」
冷静な声だった。怒りは滲んでいない。でも、容赦のない言葉。
そこを突かれると、裕斗は反論できない。全面的に自分たちが悪かったのだから。
「じゃあ何で、信用できない俺に近付いたんだよ」
三人で話し合った後、裕斗は全て終わったと思っていた。拓也の中でも、自分の存在はすぐに消えてしまうのだと覚悟していた。
「忘れられなかったから」
膝に置いていた手に、拓也の大きな手が重なってくる。すぐに払うことができなかった。
「友斗とやり直そうって決めたのに、毎日裕斗のことを思い出した」
「俺たちは――セックスしかしてなかった」
「セックスも大事な要素だろ。でも、そうだな――俺は、していない時の裕斗が印象的だったんだ」
「え?」
「いきなり俺の部屋に来たことがあっただろ? 来た理由を一生懸命話している所とか、はにかみながらプレゼントを渡してくれる姿が、可愛いなって」
――あ、それって、卒業ファッションショーのあとか。
フジオと和解できて嬉しくて、その勢いで拓也に会いに行った。凄く会いたくて。
「いつもセックスは積極的だったけど、それ以外では素っ気なかったから、あの時は嬉しかったんだ。本当に、俺に会いたくて会いに来てくれたって感じたから」
でも違ったんだよな? と拓也が淋し気な声で呟く。
「――違わないよ。本当に会いたかったんだ。あの時」
「裕斗、スマホ見せて」
「へ? なんで――」
「いいから。LINE開いて。友斗とのやり取り見せて」
冷めた声で急かされ、裕斗は言われるがままにスマホを見せた。
彼に指示され、トーク画面を過去にスクロールさせた。止めて、と拓也がいった日付は二月二十八日。
『やっぱり拓也の部屋に行く。今から』
『なんで? 行かない予定だったのに』
卒業ファッションショーが終わったあとのやり取りだ。
そのあと、友斗からのメッセージが連続で続き、裕斗が十時四十分に返した『泊まった』。
そして、『疲れマラだったみたい。したくなって行った』『五万欲しいし』のメッセージ。
「このやり取り、友斗に見せられたんだ。俺が裕斗に会いたいって言ったときに」
「あ……これは」
「見たときはショックだった。惨めな気持ちにもなったよ」
「――ごめん。これは本心じゃなかった」
五万円なんてどうでも良かった。本当に、拓也に会いたかっただけなのに。でも、どんな言い訳をしても、拓也は信じてくれないだろう。
拓也の横顔を見る。落ち込んだように目を伏せていた。裕斗の手を、ギュッと握ってくる。
「友斗に言われたよ。裕斗は俺に一ミリも恋愛感情は持ってないし、会いに行くだけ無駄だって。でも俺は会いに行った。会いたかったから」
裕斗の顔をしっかりと見て伝えてくれる。
「拓也が店に来た時は驚いたけど――嬉しかった。ありがとう」
多分、プライドを捨てて会いに来てくれたのだ。あんなメッセージを見せつけられたら、なかなか自分からは会いに行けない。
変に感動している自分がいる。拓也の手を握り返す。
「ひろと」
「たくや」
お互い甘えを帯びた声で、名前を呼び合った。
――あれ? 俺、ここに来た時は怒ってたよな?
拓也の言動に対し、疑心暗鬼になっていたはず。
気がつくと、裕斗は拓也に押し倒されている。ソファのアーム部分に頭がぶつかる。
――俺、丸め込まれてる?
Tシャツを捲られ、拓也の器用な指が、裕斗の肌をまさぐってくる。きゅっと胸の尖りを摘ままれ、「あっ」と変な声が漏れた。
「待てよ、拓也。まだ話は終わってないって」
「他に何かあるか? 話したい事」
少し面倒そうに拓也がいう。
「あるよ、まだいろいろ」
裕斗は起き上がり、拓也を座らせる。
「拓也は友斗と付き合ってたとき――浮気してた? 未遂以外に」
正直に答えろと、目で訴える。嘘偽りは許さないと。
拓也が記憶を遡るように、視線をあちこちに巡らせている。ややあって、「ああ」と答えた。
「一回あった。付き合って三か月経ったあたりに」
あっさり告白される。もう友斗とも破局しているし、開き直っているのか。
「同じ大学の人?」
「いや、バイト先の塾で――同じチューターの女性だった。あっちから誘ってきて」
情けなさそうな顔をして、頭を掻く拓也に、裕斗は溜息を吐いた。悪気なくやっているのだ、彼は。この浮気癖は、そう簡単には治らないだろう。
「でももう浮気はしない。前に言っただろ? 絶対傷つけたくないって」
裕斗の手を取って、真剣な目で彼がいう。
「――どうだか」
正直、信じられなかった。あの時――裕斗が「セックスしないと、また浮気するだろ」と拓也を責めたとき、彼は本当にショックを受けて反省しているように見えた。でも、喉元を過ぎれば、また悪癖は復活するものだ。
「長い時間をかけて培ってきた癖や習性って、なかなか消えるものじゃない」
つい説教臭い科白が口を突いて出る。すると拓也がムッとしたように眉を寄せた。
「裕斗だって、良くない習性はあるだろ。五万円もらって俺と寝てたんだから」
鋭い指摘に、裕斗は言い返すことができない。その通りだった。
「お互いの粗を探してもしょうがないだろ」
拓也が疲れたようにいって、裕斗の頭を撫でてくる。
「浮気はしない。一年ちゃんと待ってるから。フランスで服の勉強、頑張ってきて」
言われて嬉しいことを言われている。なのに気持ちは晴れなかった。
――拓也は一年も我慢できない。会えない人を一年も想い続けるなんてできないよ。
友斗に言われた言葉が胸に重く響いた。
悲しいことに、納得してしまう自分がいた。
――友斗のことが好きだったのに、すぐに俺に心変わりした。
これは誤魔化せない事実だ。
「信じられない? 俺のこと」
「友斗のことは? もう全然未練はない? 同じ研究してるし、外見も好みなんだろ? 嫌いで別れたわけでもないし」
話しているうちに不安が募ってくる。自分でも嫌になるほど女々しくなっている。
「ないない、未練なんて」
拓也がハッキリと、苦笑混じりに言った。
「あいつの嫌な面も見えたから」
「嫌な面って」
「あんなLINEのトーク見せつけて俺を引き留めようとしたんだぞ。俺が傷つくことより、自分が振られる方が嫌だったんだ」
「あ――」
容赦のない指摘だった。冷たく感じるほどだ。
「前にも言ったけど、友斗は自分のしたくないことを裕斗に押し付けて、それで稼いだ俺の愛情を、当たり前のように受け取っていた」
「――分かったよ」
これ以上聞きたくない。拓也の言い分は間違ってはいないかもしれないが、身内をこうまで悪く言われると、こちらも気分が悪くなる。
「入れ替わりの件だって、本当は友斗が言い出したんだろ?」
拓也が確信を持った声で聞いてくる。
「そうだけど……」
「三人で話し合ったとき、裕斗は友斗を庇ったよな。でも、友斗は最後まで本当のことを言わなかった」
「なんで分かったんだよ。友斗が言い出しっぺだって」
「裕斗を見ていれば分かる。裕斗はあんな卑怯なこと思いついたりしない」
「でも結局、俺も乗ったんだ。その卑怯な提案に」
裕斗はソファから立ち上がった。
拓也といても不快感しかなかった。初めてだった。彼と話していて、こんなに嫌な気分になるのは。
「拓也はさ、今までいろんな人と付き合ってきたと思うけど、長く続いたことないんじゃない? 人間、誰にでも欠点はあるのに、それを許せないんだ」
――そのうち俺の欠点も許せなくなる。
今は両想いになったばかりで、裕斗の良い面ばかりが見えるのかもしれない。もしくは、許容できるのかもしれない。
「俺にもいっぱい欠点はあるよ。完璧なんかじゃない、全然」
「裕斗」
拓也もソファから腰を上げ、慌てたように裕斗の手首を掴んでくる。
「裕斗の欠点だって把握してる。それでも好きなんだ。特別だから」
ぐっと強い力で抱き寄せられる。なんとか穏便に収めようという意図が感じられる。訝り過ぎだろうか。
「じゃあ友斗は特別じゃなかったのかよ」
声が大きくなる。なぜ自分が、こんなにムキになっているのか分からない。
「それほど好きじゃなかったってことだろ」
拓也が他人事のようにいい、裕斗の体を離した。
「お互い少し、頭を冷やそう。このまま話しても喧嘩になるだけだ」
拓也が大きく息を吐いた。苛々しているのが伝わってくる。
「裕斗は特別だよ。今まで好きになった人とは違う」
普通の声で拓也がいった。
「今それを言われて、俺が喜ぶと思うわけ?」
そういい捨てて、裕斗はリビングを去り、玄関に向かった。
拓也は追いかけてこなかった。
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