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 翌朝の七時ぴったりに、裕斗はスマホのアラームで目を覚ました。久々の煎餅布団で。  欠伸の代わりにため息が出た。  昨日、拓也の部屋を飛び出して自宅に帰り、そのまま一夜を明かした。  拓也には昨晩、そっちには帰らないと連絡している。明日は朝早くに粗大ゴミを出さないといけないから、と波風の立たない理由をつけて。  ――分かった。明日の夕方には帰ってきて。  拓也の声は弱弱しかった。落胆なのか安堵によるものなのか、聞き分けることが裕斗にはできなかった。  今日また話し合って、何か改善するんだろうか。今より信頼し合える仲になれるのだろうか。否――決してそうなるとは思えない。  またため息を吐いてしまいながら、裕斗は布団を畳んだ。縛って捨てる準備をしなくて良かったと思いながら。  四年愛用した作業台を折りたたみ、一人でアパートの外まで運び出した。指定の場所に置き、天板の真ん中に粗大ゴミシールを貼って、額に浮いた汗を拭った。  まだ八時前なのに日差しが強い。日中になったら、クーラーをかけないと熱中症になるくらい、蒸し暑くなるだろう。 「電気代がかかるな……」  ぼやきながら部屋に戻った。  今日は自分の服を縫うことにする。無地のタンクトップと、ハーフパンツ。薄手の生地だから涼しいだろう。かさばらないから、フランスに持って行こう。  ミシンをかけていれば嫌なことも忘れられる。夢中になれる。  押入れに取り付けたライトを点けて、ミシンの電源を入れる。あらかじめパターンに沿って裁断しておいた布を、ミシンの台に載せ、アタッチメントで押さえる。フットコントローラーに足を置く。  カタカタとミシンの稼働音が響く中、違う種類の音が混じりだす。スマホの着信音だと気がつき、裕斗はフットコントローラーから足を離した。  床に投げ出していたスマホを拾い上げ、着信画面を確認する。拓也かと思ったのだが違った。登録のない電話番号だ。リサイクルショップからの電話かもしれない。昨日、電化製品の見積もりを依頼したから。  通話ボタンをタップする。と、女性の声が聞こえてきた。 「裕斗?」  母だった。 「――なに?」  話すのは、卒業制作発表会で会ったとき以来だ。 「友斗からいろいろ話を聞いて電話したのよ」 「いろいろって」 「有名なファッションコンテストで入賞して、もうすぐフランスに留学するとか、その費用を全部自分で貯めたこととかよ。苦労したのね」  複雑そうな声だ。後ろめたそうな、それでいて、嬉しそうな。 「そうだけど、なんで今そんなこと――」 「だって聞いたのが昨日なのよ。それまで裕斗は、どこかのアパレル会社に就職したのかと思ってた。今は留学の準備してるの?」 「そうだよ。服作ったり、部屋の片付けしたりで忙しいんだ」  さっさと電話を切りたくなった。なんというか、腹が立つほどタイミングが悪い。もう苦労し終わったあとなのだ。 「さっき、裕斗の銀行口座に百万円振り込んでおいたから」  さらっと言わる。一瞬意味が分からなかった。 「――は? 何だよそれ。百万?」 「子供の頃に作った口座、まだ生きてるって友斗から聞いて。留学資金の足しにして」 「そんな――今更もらっても」 「遅くはないでしょ。お金はあるに越したことはないわ。来年になったら、もう百万振り込むから」 「――何で。そんな急に――訳が分からない」  今まで全く、母は裕斗の境遇を知ろうと接触して来なかった。救いの手を差し伸べてくれることもなかった。 「友斗と裕斗は同じ私の子供なのに、あまりにも不平等だと思ったのよ。離婚するときの取り決めで、養育費はお互い払わないってなってたけど――払うべきだったと思う。払える状況になった時点で」  母が饒舌に語りだした。  もともと母は、高校を卒業したあと簿記の専門学校に通い、簿記二級の資格を取って、一般企業の経理職に就いたという。そこで五年働き、裕斗たちの父と出会って結婚した。父の稼ぎが悪いから、子供ができても仕事は辞めない予定だったが、双子を妊娠したので難しくなったそうだ。出産してからは専業主婦になったが、家計が苦しいため、いつか良い条件で再就職しようと、独学で簿記の勉強を続けていたという。父との関係が悪くなり離婚することになったときは、まだ有利な資格が取れていなくて、先行きが不透明だったので、二人まとめて引き取るのを諦めた。簿記一級が取れたのは、再婚してから一年後で、税理士試験に合格したのはそれから三年後だったそうだ。 「五年前から税理士事務所を開業して、経営もうまくいってるのよ。今の夫と肩を並べるほど稼いでるの。裕斗が専門学校に行きたがってるって知ってたら私のお金で通わせることもできたのに――」  母が悔しそうな声を出した。  裕斗は呆然としながら、母の話を反芻していた。  ――全然話が違うじゃん。  友斗に言われたことと、全然。  再婚した相手は金持ちで稼ぎが良いが、母自身が自由にできる金はないと、弟は言っていた。 「だから、裕斗にはお金を受け取る権利があるのよ。私が払っていなかった養育費として受け取って欲しい」 「――いいって。いらない。今更そんなの――もう養育費を貰える年齢じゃないし。自立してるから」  他人の助けを借りたこともあったけど、ほとんどは自分の力で人生を切り開いてきたと自負しているのだ。今更援助したいとしゃしゃり出られても有難迷惑だった。自分がもし将来成功したら、それを自分の手柄として吹聴されそうだ。 「遠慮しないで。使い道はいくらでもあるでしょ? 留学は一年って話だけど、延長できるそうじゃない。希望すればもう一年」  裕斗はハッとした。その情報は以前、友斗に何かのはずみでポロッと零したことがある。すっかり忘れていた。その道は初めから諦めていたから。一年間は学費免除だが、二年目からは私費で通う事になるのだ。どう考えても無理だった。 「せっかく賞を取って留学できるのよ。一年で足りるの? 本当はもっと本格的に勉強したいんじゃない?」  その誘惑のような言葉は、裕斗の心を簡単に揺す振った。 「進級に必要な額を出してあげるから。思う存分、フランスで学んで来なさいよ」  喉が閊えて、返事が出ない。裕斗は目を瞑った。 「ね、それぐらい援助させてよ。今まで苦労させて、本当に申し訳なかったと思ってる」  留学先で、二年間しっかり学んで、技術とセンスを磨きたい。  一度手放したはずの願望が、また蘇ってしまう。止められない。
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