52

1/1
751人が本棚に入れています
本棚に追加
/67ページ

52

 九月八日、水曜日の夕方。  裕斗が夕飯の準備をしていると、帰宅したばかりの拓也が、いつもより重い足取りでリビングに入って来た。ただいまも言わずに。 「どうしたの」  彼がドサッと音を立ててソファに座ったので、裕斗は心配になって、作業の手を止めた。彼の傍まで歩み寄る。 「喉と頭が痛くて。風邪ひいたみたいだ」 「大丈夫?」  拓也の額と、自分の額に手を当てて比べてみる。と、あからさまに彼の方が熱いと分かる。 「熱あるじゃん。着替えて早く寝た方が良い」  裕斗はリビングにある木目調のチェストから体温計を取り出して拓也に渡した。先導するように寝室に入って、ウォークインクローゼットに並ぶ、ハンガーにかかったドライメッシュのTシャツと吊るされたハーフパンツを引っ張って取った。すでにベッド脇に座って熱を計っている拓也に、そられを手渡す。 ありがとう、と力のない声で彼が言ったと同時に、ピピピ、と電子音が鳴った。体温計が示した結果は、三十八度七分。 「高熱じゃん。薬持ってくる」  裕斗は慌てて寝室を出て洗面所に向かった。棚から薄手のタオルを取り、流水で濡らして硬く絞った。リビングにある救急箱から解熱剤を見つけて引っこ抜き、コップに水を汲んで寝室に戻る。  拓也は着替えを済ませてベッドに横たわっていた。苦しそうに呼吸を繰り返している。 「薬飲める?」  そっと声をかけると、拓也が首を横に振った。 「昼から何も食べてないから薬は後で良い。とにかく寝たい」  うなされたような口調でいう。裕斗は拓也の額に濡れタオルをのせた。 「気持ち良い。ありがとう」  目を伏せたまま拓也が微笑した。  寝室の空調を二十八度設定にして、裕斗が出て行こうとすると、「待って」と声をかけられる。 「頭が痛くて眠れない。何か話してよ」  そう頼まれて、裕斗はベッド脇に座った。  ――羊を数えても暑苦しいしな。今の時期。  聞き流せるくらい、どうでも良い話が良いだろう。 「じゃあフランス語を勝手に話してるよ。半年勉強した成果をお披露目」  裕斗は挨拶から始めた。ボンジュール(こんにちは)、ボンソワール(こんばんは)、サリュ(やあ)、ブザレビヤン(元気ですか)? メルスィ(ありがとう)、オフヴォワール(さようなら)などなど。十五単語を連ねる。 「半分ぐらい知ってるのあった」  拓也の唇に笑みが刻まれている。 「すごいじゃん。半分も知ってるんだ」  額に載せてある濡れタオルを裏返して、彼の頭をよしよししてあげる。  今度は適当に、頭に浮かんだフランス語を並べる。一から十までの数字、主語、感情表現。  拓也の反応が鈍くなってくる。瞼は閉じたままだ。裕斗は彼の寝顔を見つめたまま、最後にジュテームと囁いてみた。日本語よりも、英語よりも照れることなくいえる。 「それは覚えなくて良いだろ」  薄目を開けて拓也が呟いた。まだ完全には眠っていなかったようだ。  少し怒ったように、「フランスでいうつもりかよ」と更にいう。ジッと裕斗の目を見て。 「――いわないよ」  だから安心して寝ろよ、と拓也の耳元で囁き、彼の両の瞼に手のひらを当てて、閉じさせる。寝息が聞こえてくる。
/67ページ

最初のコメントを投稿しよう!