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 翌日の正午過ぎ。昨日炊いて残ったご飯を卵雑炊にして食卓に出すと、拓也は喜んで食べてくれた。 「咽頭炎っていわれた。薬もらったから、これ食べたら飲むよ」  拓也が元気のない声でいった。病院から帰って来たばかりで疲れているようだ。顔色も良くない。 「喉、どれくらい痛い?」 「唾を飲むとズキズキする」 「ああ……それはかなり酷いね」  昨晩よりは、熱が下がっている。さきほど教えてくれた体温は、三十七度七分だった。 「夜になったらまた上がるかもしれない。今日は一日寝てなよ」 「そうする。早く治さないとな。論文の締め切りが近いんだ。あ――借りた本、研究室に置きっぱなしだ」  拓也が天を仰ぐ仕草をした。  ――そんなに重要な本なのかな。 「明日行ければ良いんだけど」  気を取り直したように、拓也が雑炊の最後の一口を食べた。 「美味しかったよ。弱ってるときには染みる味だ」  心なしか、食べ始めたときより顔色が良い気がする。少しホッとする。  裕斗も雑炊と、コンビニで買ったサンドウィッチを食べ終えて、二人分の空の器を流しに持って行きながら、寝室に向かう拓也に声をかける。 「何か欲しいものある? ゼリーとポカリは買ってこようと思うんだけど」 「ありがとう。じゃあ……カフェインが入ってない栄養ドリンクがあったら買ってきて欲しいな」 「分かった。ちょっと見てくるよ」  遠慮しないで希望を伝えてくれることが嬉しかった。  食器を洗い、出かける準備を済ませてから寝室のドアを開けた。 「拓也、今からちょっと買い物行くから」  顔だけ覗かせて言う。と、拓也が少し寂しそうな顔をした。子犬っぽくて可愛い。  裕斗はちょっとだけ、と思いながら、彼の元に向かう。ベッド脇に座り、投げ出している手をそっと握った。 「最後の最後で点数稼ぐなよ」  目を瞑ったまま拓也がいった。額には汗が浮いている。傍らにあるタオルで拭ってやると、「ほらまた……」と彼が苦笑した。 「ちゃんと分かってるんだ。裕斗が完璧じゃないのも。五万もらって好きでもない奴と寝ちゃうくらいだし」  訥々と語りだす。独り言のように。 「なのにどうでも良くなる。悪い所も良く見えて、完璧だって思うんだ」 「――あばたもえくぼってやつだな」  裕斗が口を挟むと、拓也が力ない笑みを浮かべた。 「柄にもなく悩んだんだ。客観的に考えて、俺が二年も遠距離恋愛なんて、無理なんだ」  話の途中でケホケホと咳込む。裕斗が水の入ったコップを渡すと、一口飲んで、また話しだした。 「なのに、でももしかしたらって思うんだ。こんなに好きなんだから待てるんじゃないかって」  言いながら、裕斗の手をやんわりと握り返してくる。 「俺さ、恋愛でこんなに悩んだことないんだ。好きになっても冷静なんだ、普段は」  ぼんやりした顔で、裕斗の顔を見た。その目は切なそうに揺れていた。 「合鍵も、誰にも渡したことないんだ」  裕斗だけなんだ、と呟いて、拓也がまた目を閉じた。  ――お前だって、最後の最後でポイント稼いでるじゃん。  悔しい思いで、拓也の端正な寝顔を眺める。  二年待てる自信がないと、はっきり言われたのだ。それは遠まわしだが、別れを意味した言葉だったはずだ。  裕斗は唇を噛み締めた。  どうせ無理なのに。わずかな望みに縋りたくなる自分がいる。  ――俺もかなり本気なんだ。  力の抜けた、自分より一回り大きい手を摩る。弱弱しい彼を見るのは初めてで新鮮だ。可哀そうなのに、可愛いとも思ってしまう。  シーツに顔をつけると、なんだか眠くなってくる。昨晩は、リビングのソファで寝たから、眠りが浅かったのだ。急に今、睡魔が襲ってくる。少しだけ、と思いながら目を閉じた。  次に目を開けたときには、窓から差す光は少し弱まっていた。慌てて時計を確認すると、十五時二分。ヤバい、寝過ごした。  裕斗は体を起こし、まだ眠っている拓也を起こさないように静かに寝室を出た。  が、そんな気遣いも、インターホンの音で台無しにされた気分になる。  誰だろう。ここに来る人なんていないはずだ。拓也の親も、大学院の友人も、訪れたことがないのだ。  裕斗は財布の入ったエコバッグを肩に掛け、インターホンのカメラで訪問者を確認した。 「――友斗」  掠れた声が出る。  カメラに映る友斗は、裕斗と同じ髪型をし、裕斗好みの服を装っていた。
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