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 自分のアパートに戻ってすぐ、室内を見渡した。がらんとしている。大型の家電製品が無いし、日用雑貨もほとんど捨てていた。窓にカーテンもついていない。残っているのは、畳に鎮座した布団一式と、ノートパソコン。押入れの中にあるミシン二台と、安く購入したレーザープリンタ一台のみ。  裕斗はプリンタに粗大ゴミシールを貼って、玄関に置いた。明日、自治体に引き取ってもらう予定だ。 「お世話になりました」と、つい声をかけてしまった。  最近、このプリンタは大活躍していたのだ。AUTCADの代用として、フリーソフトの型紙作成ソフトで引いたパターンを出力していた。それに、航空券(e-チケット)の控えを二部印刷した。  布団は、この部屋の退去日の朝に捨てる。粗大ゴミとして引き取りの予約を入れている。  本当に、もうすぐ自分はここから居なくなるのだと、実感した。 「これも――解約しないとな」  手中にあるスマホをジッと見る。渡仏の前日に携帯ショップに行って解約しようと思っていたが、もう少し早くても良いかと思った。ギリギリだと落ち着かない。書類の不備とかで、手続きが遅れたら困ったことになるし。  解約しても、フリーWi-Fiエリアであれば(自宅も無料でWi-Fiが使える)、ネットができるし、LINEのやり取りもできる。通話ができなくなるだけで。  ――結局、拓也とはLINEをしなかったな。  以前友斗に言われたことを思い出し、気分が重くなる。 ――電話だけの連絡って、記録を残したくないってことじゃない? LINEだと後々メッセージが証拠になるし。 「信用されてないのかもな」 裕斗とLINEでやり取りなんかしたら、自分たちのトーク履歴を友斗に暴露されると考えたのかもしれない。 そんなこと、するつもりは毛頭ないが。一度失った信用は、なかなか取り戻せないのだろう。裕斗も、友斗も。  大きな溜息を一つ吐き出したところで、スマホが振動し始めた。拓也からだった。 「さっきはごめん。買い物、ありがとう。ヘルシードラッグまで行ってくれたんだよな。袋にレシートが入ってた。それなのに俺――」  落ち込んだ声で何度も謝ってくれる。こういう所は、本当に素直だし、思いやりがあると思った。 「いいよ、もう気にしてない。具合はどう?」 「良くなったよ。熱も下がって平熱だ」  話している途中で、ケホケホと咳込む声が聞こえた。 「咳がひどい?」 「そうだな。鼻水と咳がけっこう……」 「夏風邪はやっぱり長引くね。無理しないで休んだ方が良いよ」 「裕斗は、戻ってくる?」  自信のない声だった。きっと不安で一杯なのだろう。裕斗が怒りを露わにして部屋を去ったから。  安心させたいと思うのに、即答できなかった。それが自分の答えなのだと思った。 「もう、そっちには戻らないよ」  自分のしんみりした声が、畳に静かに落下する。電話の向こうで、息をのむ声が聞こえた気がした。 「ちゃんと区切りをつけないと――お互い変に引きずったら嫌じゃん。俺はあっちに二年いるかもしれないし、拓也も二年なんて待てないんだ」  案外冷静な声が出る。本当は辛いに決まっている。もう拓也と会えないのだ。悲しいに決まっている。 「裕斗――でも俺は」 「恋愛感情だけじゃ遠距離は無理だよ。一年でも無理だと思う」  拓也の声を遮るように言った。 「じゃあ他に何が必要なんだよ」 「お互い信頼し合わないと。でも拓也は俺を信じてない。俺の行いが酷かったから仕方ないけど」 「今は信用してる。前にも言ったよ」  彼の声に理知的な色が帯びる。ディベートモードになったようだ。 「LINEでやり取りしなかったじゃん、俺とは」 「それが信用してないって理由になるのか」 「他の人とはLINEで連絡することが多いんだろ。元カノとか、友斗とも」 「そうだよ。楽だからな。相手の状況を気にしないで一方的に連絡できるし」  一度言葉を切って、咳払いをしたあと、拓也が続ける。 「テキストだけじゃ味気ないから嫌だったんだ。どうせ連絡するなら電話が良かった。裕斗の声が聞きたかった」  裕斗はLINEの方が良かったの? と拓也が聞いてくる。 「俺だって電話の方が――」 「だったらLINEしなくて良いだろ」  まんまと言い負かされたのに、ちょっと喜んでいる自分がいる。 「裕斗の方こそ、俺に心を許していないだろ。俺は合鍵を渡して、裕斗を部屋に住まわせた。でも裕斗は、一度も俺を部屋に呼んでくれなかった」  淡々とした口調で指摘され、裕斗はすぐに返事ができなかった。 「それは――だって……」  こんなに古くて、風呂もない部屋なんて、拓也には見せたくなかった。恥ずかしいし、同情されるかもしれないし、自分が惨めになる。 「俺だって裕斗のテリトリーに入れて欲しかった。ずっと待ってたよ」  がっかりした声で言われ、申し訳ない気持ちになる。 「ごめん。拓也の部屋に比べたら酷い所に住んでるから――見せたくなかったんだ」  ――でも、俺の部屋に来たいと思ってたんなら、言ってくれれば良いのに。  そんな反発心も覚えた。拓也は自分の本心をはっきり言わないで、裕斗からのアクションを待っている傾向がある。留学の話もだいぶ前から知っていたのに、裕斗から話すのをずっと待っていた。そういう所はちょっと嫌だと思う。試されているみたいで。 「酷い部屋に住んでたって俺は引かないよ」  今度は優しい声だった。裕斗の気持ちに寄り添ってくれているような、そんな声。  不覚にも、涙が出そうになった。  ――なんだかんだいっても、拓也は良い奴なんだ。  合わないところも普通にある。でも、拓也は魅力的過ぎた。外見も内面も。  だからこそ、彼を長い時間、約束で縛ってはいけないと思う。裕斗がいない間、きっと良い出会いが沢山あるだろう。裕斗よりも気の合う、心の通じ合う人が現れるかもしれない。その機会を潰すことはしたくないのだ。 「お互い若いし、遠距離は難しいよ。留学まであと少しだし、色々準備で忙しいから――もうそっちには戻らない。ごめん」 一方的に言いたいことだけを言って電話を切る。すぐに電源をオフにした。 その日のうちに携帯ショップに行き、スマホを解約した。
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