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九月十五日、午前八時。
インターホンが鳴った。約束どおリの時間に、友斗が来た。
裕斗は玄関のドアを開けて、弟を部屋に招き入れた。
「ありがとね。引き受けてくれて」
裕斗は数日前に、LINEで友斗に頼みごとをしていた。アパートの退去の立ち合いを、自分の代わりにして欲しいと。
友斗は二つ返事で承諾してくれた。
「ほんと――何もないね。思い切って色々捨てたんだな」
友斗が畳部屋に立って、顔を左右に回した。
「これに収まる分しか持って行けないから」
裕斗は中古で買ったスーツケースをコンコンと手の甲で叩いた。
まだ家を出るまで時間があった。二人は畳に崩して座り、最初は当たり障りのない雑談をした。拓也の話題は出さずに、お互い自分の近況を話したり、フランスの気候や時差のことをポツポツと。
沈黙が生まれたあと、友斗が口火を切った。
「そのピアス、拓也がくれたの?」
裕斗の右耳に嵌った黒真珠に、友斗が視線を注いでいる。
「そうだよ。誕生日プレゼントにもらった」
裕斗はそっと耳たぶを触った。拓也の部屋に行かなくなってからは、頻繁にそこを弄る癖がついてしまった。寂しいせいだと思う。
「すごい落差だな」
友斗が皮肉っぽく笑った。
「俺もプレゼント貰ったよ。誕生日の一週間前くらいに、ノートパソコンを買い替えるって話をしてたんだ。そしたら三割負担してくれるって言ってくれて」
「良いじゃん。そういうのも」
「身に着ける物は贈りたくなかったって事だろ。もう恋人じゃないから」
友斗の顔が陰った。まだ拓也に未練があるようだ。
「黒真珠とか――拓也らしいな。本当は白の方が華やかで裕斗に似合うと思うんだけど、それだと女性っぽいから黒にしたんだろうな。拓也はちょっと保守的なところがあるから」
友斗が真珠購入時の拓也の心理を分析している。それはあながち間違っていないと思う。
「不公平だよな。一緒に拓也を騙してたのに、裕斗だけは許されて、好かれて」
不満げに口角を下げて友斗がいう。今の状況に未だ納得できていない様子だ。
「俺がセックスさえできれば、こんなことにならなかったのに」
唇を歪めて友斗が呟いた。
「俺も拓也とは別れたから。二年も遠恋はできないって拓也に言われたし、俺も無理だと思った。もう五日、拓也に会ってない」
弟を落ち着かせるために自分たちが終わったことを話す。本当に五日間、拓也に会っていない。スマホを解約したから電話もかかってこない。
「じゃあ俺にもまたチャンスがあるのかな。裕斗みたいになれば――夏は坊主にして、ピアスして、センスの良い服着て。セックスもちゃんとできるようになって」
ふふ、と自虐的に笑う友斗が痛々しかった。
「そんな悲しいこと言うなよ。友斗は友斗だろ」
無意識に友斗の腕を掴んでいた。
自分と同じ顔を見る。同じ形の唇が、小刻みに震えた。同じ双眸からは涙が溢れた。
「ほんと――裕斗はいつも言うな。友斗は友斗だって」
しゃくり上げながら友斗が話しだす。
「本当は分かってた。拓也は裕斗の内面に惹かれたんだって――でもそれを認めたくなかった」
「友斗、どうした」
いきなり泣かれて、裕斗は困惑した。どこでスイッチが入ったのやら。
「裕斗はいつも俺が言って欲しい言葉を言ってくれた。優しかった。たまに厳しいことも言うけど、俺のことを想ってくれてるからだって分かってた」
「――友斗」
涙を拭うこともせずに、友斗は泣きながら話す。
「本当は俺を責めたかったんじゃないの? 母さんから聞いたんだろ? 裕斗が専門に行く費用を出して欲しがってるって、母さんに伝えなかったこと――なのに裕斗は何も言わなかった」
「ああ――その件はもう気にしてない。母さんに聞いたから。友斗も新しいお父さんの期待に応えようと必死だったんだろ」
母が言っていた通り、あの時の友斗は、進路を自由に選べる裕斗が羨ましかったのだと思う。時間がかかっても、経済的に辛くても、最終的には希望している専門学校に行けるのだから。
「それだけじゃない。裕斗がコンテストで入賞して、留学の費用を貯めるのに必死だってことも母さんに言わなかった。頑張って夢を叶えてる裕斗と比べられるのが嫌だった。でも、一週間前に母さんに言った。それを知ったら母さんが支援したがるって分かってたから」
懺悔するように、友斗が顔を両手で覆った。
「留学を延長できるってことも言ったんだよな」
裕斗は溜息を吐いた。あれは誘惑の申し出だった。一年きっかりで帰国すると、拓也に約束できなくなったのだ。
「そうだよ。一年なら拓也も待てるかもしれないけど、二年はさすがに無理だと思った」
「友斗の思惑通りになったよ。良かったな」
わざと嫌味っぽく言った。それくらい良いじゃないか。こっちも傷心の身なのだ。
「全然良くない。拓也は落ち込んでて論文も書けないし――もうすぐ締め切りなのに」
「そうなの?」
意外だ。拓也はプライベートが上手くいっていなくても、仕事は割り切ってこなすタイプだと思っていた。
「少し痩せたし。間接的に俺のせいだと思うと凄い罪悪感がある」
「大丈夫だ。すぐに立ち直るよ。拓也だし」
裕斗は腕時計を見た。八時半になっている。そろそろ家を出る時刻だ。
「じゃあ俺、行くから。拓也によろしくな。あと、立ち合いも。面倒だけどお願いします。あ、ミシン、アパートの玄関まで出すの手伝ってくれる? けっこう重いんだよね」
二人は慌ただしくミシンとスーツケースを外に運び出し、車道沿いの歩道でタクシーが通るのを待った。この道ではタクシーがよく流しで走っているので、わざわざ電話で呼ぶ必要がない。待っている間手持無沙汰で、裕斗から話題を提供する。
「友斗もさ、拓也に見分けてもらえなくて、けっこう凹んだだろ。計画は成功してもさ、複雑だったんじゃないの」
誰だって、恋人には自分とそれ以外を判別してほしいはずだ。
「そうだね、それはあった。バレたらヤバいんだけど、心のどこかで早く気がついてほしいって思ってた」
「だよな」
裕斗は深く頷いた。
「俺も――拓也が友斗のこと『ひろと』って呼んで、ショックだったし」
特別だと言っておいて、間違うのか、と裏切られた気分に陥った。寝ぼけていたと釈明され、それを受け入れたが。
「でも拓也は、すぐに気がついたよ。裕斗じゃないって」
友斗が拓也を庇うようにいう。
「ピアスのある、無し、だろ」
「それは違うよ」
強い声で友斗が否定した。ぐっと裕斗の手を掴んでくる。
「あのとき俺、拓也に体重かけてキスしようとしたんだ。拓也がその気になればセックスだってする勢いで――でも、キスを拒否された。裕斗じゃないだろって。裕斗はこんな状態の俺を押し倒したりしないって」
真剣な眼差しで友斗が言葉を紡ぐ。
「それってさ、裕斗の内面をちゃんと分かってるってことだろ」
「――何で今更いうんだよ」
もう別れてしまったし、もう会えないのに。
拓也の顔が頭を過る。
初めて会ったときに見せてくれた全開の笑顔。セックスしているときの、野性味あふれる牡の顔。事後の、風呂場で労わってくれる慈愛に満ちた顔。どれもこれもイケメンで、嫌になるほど裕斗好みだった。
危うく泣きそうになる。でも堪える。
タクシーが来た。
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