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 羽田空港に向かう前に寄る所があった。 『WIND』の裏にある駐車場に止まってもらい、裕斗はミシンを一台持って、タクシーから外に出た。するといつの間にか、高井がタクシーに向かって手を振って、歩いてきていた。 「俺も運ぶ。もう一台あるんだろ」 「はい、ありがとうございます」  二人で一台ずつ、ミシンを店内に運んだ。 「ありがとうございます。突然のお願いに応じてもらって、助かりました」  裕斗は高井に向かって、ペコリと頭を下げた。 「一年でも二年でもそれ以上でも、ここで預かってやるから。安心しろよ」 「頼もしいです、ありがとう」  本当に頼もしかった。『WIND』は、裕斗にとってずっと、実家のような存在だった。本物の実家とはだいぶ前に決別していたし、父と住んでいたときも、裕斗に安心や温もりを与えてくれたことはなかった。  最後に売り場を見回して、スマホで写真を撮った。高井がわざと写り込んできてピースをした。裕斗は笑った。 「こっちに戻ってきたらまた、服置いてやるからな」 「有難いです。今よりレベルアップしたもの提供します」  二人は笑い合って、握手をした。 「で、拓也とはどうなってるんだ?」  真面目な顔のまま、高井が案じるのように聞いてくる。 「どうって……遠距離は無理だってことで、関係を終わらせました」 「え、本当にそれで良いのか? 拓也は諦めてないようだったぞ。店にこの前電話がかかってきて、裕斗が最近、来ていませんかって聞かれたんだ」 「え、そんなことが――」  想定外だった。拓也の行動が。 「今日の朝、お前がミシンを預けにここに来るよって教えてやったよ。拓也が可哀そうになったから」 「そんな勝手に――」  責める口調になって、裕斗は口を閉じた。  人情のある高井らしい行動だと思った。そんな彼に、自分だって沢山助けられてきたのだ。  店の外に出て、名残惜しそうに肩を叩いてくる高井に、「お世話になりました」とありったけの気持ちを込めて伝えたあと、裕斗は駐車場に向かった。  待たせているタクシーのすぐ近くに、彼がいた。 「拓也」  あと何回、この名前を呼ぶことができるのだろう。 「裕斗」  噛み締めるように言って、拓也がぎこちなく笑った。  彼の正面に立って、ありがとう、といった。 「見送りに来てくれて嬉しい」  裕斗は顔の筋肉を意識して笑った。自分の良い顔を、拓也の記憶に刻んでほしくて。  一瞬気が遠くなったような目をして、彼が裕斗をぼうっと見た。 「嫌になるほど可愛いな」  苦笑し、頭を掻いている。 「男に可愛いってさ――」  裕斗が呆れると、拓也に「俺になら言われて嬉しいだろ」と返され、何も言えなくなる。その通りだから。  暫し無言で見つめ合った。先に口を開いたのは拓也だった。 「約束はしないけど。勝手に待ってる」  彼は晴れやかに笑った。それが悩んだ末に導き出した結論なのだと、裕斗は悟った。  自分たちは似ているな、と嬉しくなる。 「俺も約束はしない。勝手に好きでいるよ」  全開の笑顔でいった後、裕斗は自分から、拓也に抱きついた。ぎゅっと、彼の存在を確かめるように、きつく背中に腕を回した。彼もすぐ裕斗の背中に腕を回してくれる。 「ありがとう。拓也と一緒にいられて幸せだった」  言い切ったと同時に、パッと彼から体を離した。 「行ってらっしゃい」  低く通る声で、拓也が送りだしてくれる。 「行ってくるよ、たくや」  できるだけゆっくり彼の名前を口にした。  タクシーの後部座席に乗り込む。 「待たせてすみません。羽田空港までお願いします」  普通の声が出てホッとする。  自分はどうも、悲しいときや辛いときには泣けないようだ。我慢する癖がついてしまったのかもしれない。  じゃあ、次にうれし涙を流すのはいつなのだろう。  裕斗は右の耳たぶを触った。そこに嵌め込まれた黒真珠を、そっとなぞる。  お互いを縛る約束はいらない。  それでも毎日、ピアスを触るだろう。  ――お前を感じていたいんだ。
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