すどうあかり②

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すどうあかり②

 外は春の陽気に、いや初夏の熱気に覆われている。暦はすでに五月の終わりに差し掛かっていた。  街頭で見かけた今日の日付は五月二十四日。どれくらいカレンダーを見ていなかったのだろうと考えたが、思い出せなかった。  外に出るのがあまりにも久しぶりで、色んな音が騒々しく思える。目にチカチカと光を感じて目を細めた。同時に音の聞こえる世界、色のある世界に触れた感触があって、改めて生きていたいと心を奮い立たせた先刻の自分に頑張ったねと伝える。  さて。  冷静に考えると、状況は何も変わっていないことに少女は思い至る。生存への希求に行動を起こしたものの、状況の改善がうまくいくかはこれからの行動次第と言えた。  彼女は、ひとまず役所に行ってみようと考えた。役所の場所なんてうろ覚えだが、歩いて行ける距離にあったはず。  まだふらつく足取りで、人目を憚って歩き出す。自身で思うよりも体力が低下しているらしく、時折足を止めて、休み休みで歩を進める。  会社員に、学生と姿が見られる時間になってようやく、彼女は役所にたどり着いた。健脚なら三十分もかからぬ道程を二時間ほどもかけた。  開庁まもない役所に人気は少なかった。整理券をとるとすぐに番号が呼ばれる。 「本日はどのようなご用件ですか」  応対する女性職員の機械的な質問になんと答えるべきか詰まる。言葉を返さないこと、そして見るからに不健康な様子でいる年頃の少女に、職員は怪訝そうな目を向けた。 「両親が、いなくて。死んでしまって。ええと、だから、いろんな手続きを見てくれる代理人が必要で」  その言葉に事情を察したらしい。 「未成年者後見人のお手続きですね。どなたかご親族の方の委任状はお持ちですか」 「いえ」 「ご親族の方と連絡はとれますか」 「いえ」 「であればこちらの窓口ではお引き受けできませんので、別の窓口をご案内します。案内する前にこちらの書類の記入をお願いします」  氏名、生年月日、住所などいくつかの事項を記入して職員に渡す。自分の丸文字が格式ばった紙切れにそぐわないと見えて、少し恥ずかしくなった。  それから案内されたのは児童福祉窓口だった。センシティブな内容であると配慮してか、個室に通された。  パイプ椅子に座ってしばらく待っていると、四十歳半ばほどに見える女性職員が部屋に入ってきた。 「お待たせしました。須藤灯里さん、でよろしいですか」 「あ、はい」 「児童福祉科の担当をしております樋口と申します。事情があるように見受けられると聞いてきたのですが、お話できますか」と優しく尋ねた。  樋口と名乗る職員に促され、少女は昨年父が逝去したところから話を始めた。誰にも内心を話せぬまま過ぎた一年余りの出来事を、何度も言葉に詰まり、耐えきれず声は震え、涙をこぼしながら、吐露した。樋口はそっと手を握って相槌を打ち、彼女が今日ここに至るまでの苦悩を最後まで優しく聞いた。 「そう。辛かったですね。灯里ちゃん、お話ししてくれてありがとう。大丈夫ですよ、もう大丈夫ですから」  そっと抱きしめられ、咽ぶように泣いた。しばらく落ち着くまで樋口は少女を抱きしめ続けた。  どれほど時間が経ったか分からないが、私は急に我に返った。それこそ母親のように抱擁されていることに申し訳なさと恥ずかしさが湧き上がる。 「すみません」  そう謝ると、樋口さんは優しく微笑んだ。 「いいえ。いいえ。灯里ちゃん、少し落ち着いたところで、これからどうするか話をしましょう」  行政としては、まず一時保護として保護所の入所手続きを迅速に行うこと。そして家庭裁判所に申し立てを行い、未成年者後見人の選任をするつもりだと、樋口さんは言った。生活に必要な資金が底を尽きそうな状況にあることを鑑みて緊急で手配をするらしい。 「ごめんなさい。私たちがもっと早く、灯里ちゃんのような状況にある人に気付ければこんなに辛い思いをさせずに済んだのに」 「いえ、私も、拒絶したというか、早く頼っていれば、よかったんです」  樋口さんは本当に申し訳ないといった様子で謝った。本来、母が入院した時点で一時保護を受けることはできたらしい。学校や病院からの連絡を受けた時点で保護に移せていれば、と何度も頭を下げる。  自分のしてきた行動が誤っていて、それが故に頭を下げられるのは筋が違うと思った。 「いいんです。私がもっとちゃんと話して、ちゃんと頼っていたらよかった話、なんです」 「本当にごめんなさい、私たちがちゃんと気づけなかったばかりにそんな風に考えさせてしまって」  堂々巡りの問答を重ねて、それから樋口さんは「入所の許可をもらってきますね」と退室した。  こんなに長く誰かと話したのはいつぶりだったろうか。これで現状は少し、いや随分変わるだろうと思った。
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