すどうあかり①

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すどうあかり①

 彼女は普通の女の子だった。背はやや小柄ながら、腰より先まで伸ばしたきれいな黒い髪の毛が少し目を引くだけの、普通の女の子だった。  中学生の時はモデルに憧れた。平凡な顔立ちなので、せめて流行りのメイクを、服装をと勤しんだが、悲しいことに夢に見合った背丈に育たなかったので、泣く泣くその夢を諦めた。  多感な時期にはハーレクイン文庫の好きな母に感化されて、好んでラブロマンスを読んだ。かといって本の虫扱いされるのは嫌だったので、人前では決して読まなかった。それなりのコミュニケーションスキルで、それなりの交友関係を築いた。スクールカーストで言えば特に目立たない級友Aと大半が認識するくらいには。  なんとなく最寄りの高校に進学して、なんとなく友達と青春を謳歌して、そろそろ現実と向き合い就職するか専門学校にでも進学するか考えるようになった高校二年生十六歳の春に、その出来事は起こった。  父が交通事故で他界した。  轢き逃げだった。重傷の父は這って最寄りのコンビニの駐車場に辿り着き、意識を失ったらしい。発見されてすぐに救急搬送された病院の待合室で父の無事を祈ったが、その願い虚しく帰らぬ人となった。  ドラマのような突然の死別。目撃者はいなかった。それ故に慰謝料だとか得ることもなく、念のために程度にかけていたささやかな保険金だけが家族の口座に振り込まれた。  母と娘だけ残された事実は、行政手続きの慌ただしさに置き去りにされ、初七日を終えてようやく、重くのしかかった。事故死による保険金は葬儀の諸々でほとんどなくなっていた。不幸中の幸いだったのは、マンションのローン残高が父の死によって相殺される保険でなくなり、持ち家であることだけだった。  父の死に心を病んだ母は、みるみる痩せ細っていった。そして初夏を前に倒れて入院することになった。食事もとらず、点滴に繋がれて過ごすうちに母は口を聞かなくなった。まるで痴呆症に侵されたように、応答がなくなり人形のような生気のない目で娘を見るだけとなった。  収入の絶えた通帳から預金はみるみる減ってゆく。住む場所はあるが、これまでと同じ生活を送ることは諦めるほかなかった。なんだか大変そうだからなどとうそぶいて、高校の友人たちはすぐに疎遠となった。友達なんてうわべだけだったな、と早々と通り過ぎた青春を回顧した。  どうにかする方法があったのかもしれないが、そんな知識はなかった。高校生活を続けるメリットがないからと自主退学を申し入れた時に先生が「役所を頼ればなんとかなるから」とか「学校の費用は納入をずらすこともできるから」とか「奨学金を借りてでも高校は出なさい」とか、色々と言っていた気もするけど、みすぼらしい普通じゃなくなった自分を誰にも見られたくないという変な羞恥心が勝って、逃げるように学校からの連絡を絶った。  とにかく働くしかないと親の同意がなくとも働ける仕事を探す。ありついた仕事はろくでもない賃金だったが、それでも収入がないよりマシだった。  祖父母は他界している。他の親戚付き合いもなく、頼れる知人もなく、貯蓄もない。未成年でひとりぼっちの少女が母の看護を伴いながら医療費と生活費を稼ぐのは厳しい状況としか言えなかった。  どうして、私ばかり、こんな目に遭うの。  どうして、お父さん、死んじゃったのよ。  どうして、お母さん、倒れちゃったのよ。  どうして、誰ひとり、助けてくれないの。  母が倒れてから半年あまりが過ぎた冬の半ば。彼女もまた、心を病んでしまった。母の看護に病院を訪ねることは減り、働くことさえできなくなった。  未成年者後見人を立てるべき、だった。少なくとも状況から言えば保護される対象になっていたはずだった。行政が無能だったわけではない、病んだ心では訪ねてきた他人と会話することさえできなかったのだ。たすけて、と伝えることさえ、できなかったのだ。  母の見舞いに行かなくなって二ヶ月が過ぎた。スマートフォンには毎日、病院から着信が残されていたが、応答しなかった、気づけば父の死から季節は一巡していた。法律が変わって成人の年齢が引き下げられたが、十七歳になっても社会的に変わりはない。彼女は変わらず無力なままで、そして社会に忘れられた存在と成り果てた。細々と貯金を切り崩して生きていた。真夜中に食料を買いに出て、あとはずっと家の中で、現実から逃げるためにただただ小説を繰り返し繰り返し読んでいた。物語の不幸な主人公たちは必ずと言っていいほど、運命の相手と出会って結ばれた。王子様に憧れるわけじゃないが、お話の中にある幸せがあまり遠くて、だけどそれしかなくて、ひたすら読書に耽った。  死んじゃおうか。  ふと、ベッドの上でそんなことを考えている自分に気づいてゾッとした。  しんどい、つらい、こわい、かなしい、くるしい、さみしい、きつい、たすけて、それらの負の感情は言葉となって脳裏を埋め尽くす。言葉にできるのだからまだ大丈夫と声がした。同時に、精神はもうむりだ終わりにしてくれと囁く。  ガリガリに痩せこけた自分の腕が視界に入る。肌つやもなくかさついていて、まるで病人か老人みたいに思えた。つい一年前まで、華の女子高生だったのに、幸せだったのに、どうしてこんな不遇に喘いでいるのだろうか。もしお父さんが生きていたら、もしお母さんが倒れなければ、もし自分がそれでも平気でいられるほど強ければ違ったのにちがうちがうちがうちがうわたしはそんなつよくないおかあさんめをさましてよおとうさんかえってきてよやだよやだよやだやだやだやだやだやだ。  気が狂いそうだと自覚して葛藤する中、ピンポンと呼び鈴が鳴った。ドンドンと扉を叩く音、なんだろう騒がしい。 「あかりさん、すどうあかりさん、ご在宅ですか」  聞き覚えのない女性の声。妙に切羽詰まる語調だった。 「すどうさん、すどうあかりさん。ご在宅ですか」  繰り返し扉を叩く。よく通る声も合わさって、このままじゃ近所に迷惑となる。億劫だったが、起き上がってインターホンへ向かった。  ボタンを押す前に声が出ないことに気づいて咳払いした。少しだけ「あー」と喉を鳴らす。最後に会話したのは、一週間ほど前にスーパーの店員さんにモノの場所を尋ねた時だった。 「はい」 「すどうあかりさんですか」 「はい。あの、どちらさまですか」 「私は○○病院の看護師を務めています。お母さまが容態悪くなっていて、親族の方を呼ぶようにと主治医が申しておりまして」  そこから先のやりとりは、正直あまり、覚えていない。後で振り返れば本当に看護師の人かちゃんと確認もせず鍵を開けて、危険な人物に押し入られる可能性だってあったな、と思う。  母も、父に倣ってかあっけなく逝った。葬式とかなんとか通り過ぎたのだろうけど、それもあまり詳細には覚えていない。葬儀社の人にどなたか未成年でない人と連絡はとれないかとか、聞かれたような気もする。曖昧だ。  火葬場のボタンをこの手で、押したことは、どうしてか、くっきり覚えている。そこからの記憶はやけに鮮明に、はっきりと憶えている。  この手で、最後の肉親の肉体を、焼いた。焼いた。焼いた。焼いた。焼いて。焼いて。焼いて。骨と灰は白くて白くて白くて少しだけ黄ばんで見えた。  骨を拾ってあげてくださいと言われて、私と火葬場の職員しかいない部屋で、何も言葉を発さずに、灼けた母の残骸を集めた。父の骨を拾った時も心はがらんどうみたいだったと、今更ながら思い出した。  死んじゃおうか。  つい先日のぼんやりとした感情とちがって、明確な意味でこみあげた心の叫びだった。もう疲れてしまった。  しあわせがなんだかわからない、いきているりゆうがわからないほど、つかれてしまった。  母の死からひと月、どう生きていたかも分からないような状況で過ごしていた。料金の支払いが遅滞しているために、スマートフォンはおろか電気さえつかない。水道はまだ止まっていない。食事は、なに、食べてたっけ、わからない。あったかいごはん食べたいよ、おいしいご飯、食べたい。 「もう、死にたい、むり」  言葉にして実感したのは生への執着で、まだ死にたくないと何処かで考えていることに泣いた。涙が尽きるまで、声が枯れるまで、心が泣くことにくたびれてしまいそうになるまで、全部を吐き出すまで、ただ泣いた。  好きな人もいた。楽しい趣味もあった。大きな夢はないけど未来は明るかった。それにお父さんとお母さんがいて友達がいて満たされていたあの日々には戻れない。この先にある日々が酷く昏く醜く映る。唯一の財産といえるこの住まいでさえ、このままじゃ維持することだって難しい。  ふと、この住まいを売り払えないかと思い付いた。後見人さえいない自分だが、もしかしたら行政を頼ればなんとかなるのかもしれない。  そうだ。頼ればいいんだ。頼ればなんとかなるって先生も言っていた。なんで失念していたのだろう。親族がダメでも後見人になってくれる人は、見つかるはずだ。そうじゃなきゃ両親を亡くした未成年に、あまりにも社会が無関心すぎる。家だって手放さず済むかもしれない。  生きていたい。  生きて、いきたい。  まだ、死にたくない。  一年といくらか、悪夢のような日々を過ごしたことを振り払うように、私は強く決意した。  生きてやる。  まだ、生きて、死なずに、生きて、生きて、生きる。生きる。生きろ。生きろ。生きろ。  ネット環境は使えないけれど、公共施設で調べるなり、役所に行くなり、すればいい。  窓から陽が差し始めた時分に、浴室へ向かった。外に出るのなら最低限、人と話せるようにしておかないと。  お湯は出なかった。冷たい水で、残り少ないボディソープとシャンプーで、体を洗った。洗面台に映った顔と体を見て戦慄する。痩せこけたその女は、死の臭いを感じさせた。こんな風になるほど追い詰められていたのかと思った。そしてこの出立ちで人前に出ることが恥ずかしいを通り過ぎて、怖いとさえ思った。  だが、このまま過ごしていては死ぬだけだ。私は死にたくないと、生きると、願ったのだ。生きるんだ。生きてやるんだ。  なんとか身だしなみを整えて、なんとかふらつきながらも玄関の扉に辿り着き、外の世界へ歩み出た。
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