笑うヘンデルと二重奏

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 向かった先は勤務先の学校、私立四藩(しば)高校。音大合格者数が八割を占めるこの高校で私は音楽科の教師をしている。  小さい頃は家の都合で音楽家になることが当たり前だと思っていた。けれど、いつしかそんな気持ちは薄れて現在の教師の夢を抱くようになった。念願叶って、去年母校であるこの高校に赴任した。毎日が楽しくて、刺激的。先ほどまでもやもやしていた母のことなど忘れていた。  そしてこの学校は吹奏楽部が強豪校として有名だった。音楽をやっていた身として、吹奏楽の副顧問を立候補した。結果は合格。とても嬉しかったのを覚えている。  通常授業を終え、部活動の時間帯となる。夕方の四時頃から六時頃まで。ただ今日からは夏の演奏会に向けての練習が始まるため、練習は七時まで延長される。  みんないい顔をしている。なんだかこっちも嬉しくなってくる。いい週末を送れそうだ。  一通りのパート練習が終わり、時刻は七時を回ろうとしていた。楽しい音楽の時間はすぐに終わってしまう。私は少しだけ寂しく感じた。 「茜ちゃん、また月曜日ね!」 「こら、先生と呼びなさい! またね」 「ばいばーい!」 「はい、さようなら」  生徒たちが全員音楽室から出て行ったことを確認し戸締りをする。職員室に戻り、今日の日誌を書きまとめる。そこへ、吹奏楽部主顧問である須藤明彦先生が顔を出した。 「美音先生、お疲れ様です」 「あ、須藤先生。お疲れ様です」 「今日はどうでした?」 「みんないい顔で演奏していましたよ。気になるなら来ればいいのに」 「いやいや、俺は嫌われてるから。『須藤は煙草臭いから嫌』『真面目に教えてくれないから来なくていい』、とかね」 「あはは……」  流石に本当のことだと判断してしまったので私は苦笑いする他なかった。 「それよりも、今日どうですか?」  くいっ、と須藤先生が指を動かす。飲みの誘いだった。 「あー……いえ。今日はちょっと」 「いつもそうやってひらりとかわしますね~。いいじゃないですか今日くらい」 「はあ……。でも、やることが」 「少しくらい、ね」  須藤先生は私の横にいつの間にか座っており、机の上に置いていた左手の平に指を絡めようとする。私は小声で「セクハラですよっ」と一喝するが彼は聞く耳を持たないようだ。好意を持たれていることはなんとなく察していたが、これでは脅しにも取れるなとため息を吐く。私は、面倒になったのかいつしか抵抗することをやめていた。 「……行けばいいんですね?」 「そうこなくちゃ」  そして再び落胆。まあ、金曜日だしいいだろう。明日は土曜日で吹奏楽部の活動もない。仕方ない。付き合ってやろう。 「でも仕事が終わらないと行けないんで、退いてくれませんか?」 「いや、終わるまでここにいよう。君は見ていて飽きない」 「馬鹿なの?」 「敬語!」 「――美音先生!」  不意にほかの教員に声を掛けられ、勢いで隣に座っていた須藤先生を押し倒してしまった。ガチャンッという大きな椅子が倒れる音が職員室に響いた。 「大丈夫ですか?」 「ご、ごめんなさい! あの、なんでしょうか?」 「あ……。それが、安藤総合病院の三浦先生という方からお電話で……」 「え…………?」  ――今日、が迎えに来るのよ。ね。  朝の、母のあの言葉が過ぎった。  電話を受け取る手が震える。恐怖が冷や汗に代わっていく。 「……はい、美音です」 『…………美音さん、落ち着いて聞いてください。  ――お母さまの美音雪子さんが、亡くなりました』  時が止まった気がした。職員室に飾ってあるカレンダーが目の端に映る。  五月二十二日、金曜日。  ――今日、が迎えに来るのよ。ね。  あの言葉が耳から離れない。電話越しに担当医が何か言っている気がしたが、私は電話から手を放し、職務を放棄していつの間にか職員室を出ていた。  タクシーを拾い、急いで病院に向かう。嘘だ。あの人が死ぬはずがない。嘘だ。そんなのあり得ない。震える手を必死に抑えながら、病院に着き、病室に急いだ。  病室には数名の看護師と担当医、三浦先生が母の周りに立ち尽くしていた。 「美音さん……!」 「お、母さんは?」 「蘇生を試みましたが……」  三浦先生の腕の隙間から、母の姿が目視できた。顔色は白く、朝とはまるで別人だった。 「朝まで……生きてたのに……?」  ――今日、が迎えに来るのよ。ね。  五月二十二日、金曜日。  母が、死んだ。十年前の今日、死んだ姉によって、死んだのだ。
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