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バサリと揺れるカーテン。
母の頬に涙が流れ、小雨が室内に入る。
ベランダへとつながる大きなガラス戸は開いていて。
私は、どうすることも出来ず、ただ。
ただ、彼女が落ちていく瞬間を見ていることしか出来なかった。
§ § §
ピピピッ、ピピピッ――。
どこかで朝を告げる愛らしい音が私の耳に届き始める。
「ん、んー! うるさい!」
私は我慢できず、机の上に置いてあった目覚まし時計を手に取り床に叩きつけた。愛らしい音のボリュームの大きさに毎朝腹を立て、いつも無造作に床に叩きつけてしまう癖があるらしい。寝ぼけていて毎朝覚えていないのが不幸中の幸いか。今日も目覚まし時計はどこかにヒビが入ってしまったことだろう。いい加減、新しいものを買わなくてはいけないとは思うもののなかなか買い替えることが出来ない。ときめくものが無いためだった。
「……やってしまった。はあ……」
再度、なかなか手放せない目覚まし時計を床から救い上げ、ベッド横の机に置き直す。
「今日もごめんね、“しずくちゃん”」
ちなみに、しずくちゃんというのはこの目覚まし時計の名前である。水滴のようなフォルムをした水色の時計だから、そういう名前を付けた。名前なんて付けたから手放せないのか。そのことに気が付いたのは最近だった。
「……あ、いけない。今日は早めに出る日だった!」
部屋のドア付近に取り付けているカレンダーがふと目に入った。今日の日付までにはバツ印が入っており、今日の欄には『母』という一文字が書かれている。
「やばいやばいやばい! 行ってきまーす!」
私は朝ご飯を食べる時間も無く、朝の六時に住んでいるマンションの部屋を出た。
§ § §
「――美音さん、美音茜さん」
「は、はい!」
名前を呼ばれ、先ほどまで来ていた眠気がすっと抜ける。
ここは母の入院している病院だ。十五年前から母は入退院を繰り返しており、十年前からはずっと入院し続けていた。
理由は、よくは知らない。ただ、担当医曰く「立ち直ることが出来ない病気」なのだそう。要は心の病。精神疾患のようなことなのだろうと私は解釈している。
「面会大丈夫です。どうぞこちらへ」
「はい」
いつもは来ることは無い。ああいう状態になった母に会うのが苦手だから。誰でも精神が不安定な人間に会いたいとは思わないだろう。私もそのうちの一人だ。
けれど、今日は来なければならない日だった。母が来いと連絡をしてきたのだ。
「お母さん、入るよ」
「……」
返事は無い。分かってはいたことだ。特に何も思わない。
「……とりあえず、一週間分の着替え洗濯してきたのと、暇だと思ったから音楽系の雑誌何冊か家のやつ見繕って……」
「…………。茜」
「ん?」
「私が死んだら、家にあるもの全て処分しなさい」
「家のもの? 全部?」
「何も残さないで」
母は真っ直ぐ前だけを見てそう言う。
「分かった。……でも、死ぬなんてそんな。まだ若いんだし。病気も治るんでしょ」
「今日、あの子が迎えに来るのよ。私を殺しにね」
何を言い出したのだろうか、この人は。けれど、母は何も間違っていないと言わんばかりの表情で私を見た。本気で、そう思っているのだと肌で感じた。
「……あの子って、……お姉ちゃんのこと?」
「…………ええ」
「……そう。……あ、ごめんお母さん。私そろそろ行かなきゃ。仕事あるから。話って家のことだけで良かった?」
「…………」
「だんまり……。じゃあ、行くね。また来るから」
私は逃げるように母の病室を出た。
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