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菜花は大慌てで自宅に戻り、着替えを済ませて此花電機に向かう。
気が逸っていた。どうしてもっと早く気付かなかったのかと情けなくなる。あれほど毎日資料を目にしていたというのに。
「お疲れ様です。午前中はお休みをいただき、すみませんでした」
菜花は到着と同時に、まず横山に挨拶に行った。まだ昼休みの時間で、社内にはあまり人がいない。
「急いで来たの? そんなに息を切らせて」
「あ……はい。忙しい時期に申し訳なかったので、少しでも早くと思って」
「真面目だねぇ、杉原さんは!」
横山がにこやかに微笑む。本当は違うのだが、ここは笑って誤魔化しておく。
菜花はシステムに入力する書類はないか確認すると、横山が仁奈のデスクから書類の半分ほどを菜花に渡してきた。
「これからまだ回ってくると思うから、少し多めだけど頼めるかな?」
「はい、大丈夫です。これから取り掛かりますね」
「いやいや、お昼が終わった後からでいいよ」
「はい。でももうお昼は食べてきましたので、あと十五分ほどですし、少し早めに始めます」
「本当に真面目だなぁ。それじゃ、無理しない程度によろしくね」
「はい」
菜花は書類を抱えて書庫に向かう。
システムの入力は、昼休みが終わってから始めるつもりだった。この十五分を使ってやることは、もう決まっている。
書庫のロックを解除して中に入ると、菜花はデスクに書類を置き、まずはここに誰もいないか確認する。そして、一目散にラックの方へ向かった。
「えーっと……この辺り……」
ここ二、三年くらいの書類がまとめて置いてある場所だ。ファイリングはすでに終わっていたので、確認はしやすい。
菜花はファイルの一つを手にして、パラパラと書類をめくり始めた。
「えーっと……あ、あった」
当たりをつけていたので、すぐに見つかった。
それは、営業部一課からの支払い依頼書だった。担当は水無瀬だ。
「やっぱり」
違和感の正体が明らかになり、菜花はようやく胸のつかえが下りたようにすっきりした。
水無瀬が担当している取引先、佐野電産という会社の請求書が添付されている支払い依頼書に、答えはあった。
「ここだけなんだよね。ハンコが不自然」
佐野電産の支払い依頼書には、担当の水無瀬、営業一課長補佐、営業一課長の承認印が押されている。だが、その三つの印は、計ったように真っ直ぐなのだ。どの月を確認しても、ここだけはそうだった。
他の支払い依頼書は、向きがその時々でバラバラだ。斜めになっていたり、ひどい時にはほぼ横になっていたりもする。一課の課長補佐は面倒くさがりらしく、判の押し方が雑で、掠れているものもあるくらいだった。
それなのに、佐野電産のものだけはきっちりと真っ直ぐに押されている。これはあまりにも不自然だった。この支払い依頼書は、間違いなく横山が作成したものだ。几帳面に真っ直ぐに揃えられた押印が、それを示していた。
おそらくこの会社が、水無瀬と横山が過剰に請求した金をプールする場所として利用している口座なのだろう。
「どの会社で過剰請求してるのかもわかればいいんだけど……」
菜花は水無瀬担当の取引先を隈なく確認するが、他の依頼書の印は佐野電産ほど不自然なものはない。
これはたぶん、本物の支払い依頼書と偽物、両方を水無瀬が作成しているからだと思われた。
「水無瀬さんも、課長補佐と課長のスタンプ印を持ってるんだろうな」
結翔曰く、水無瀬は取引先の請求書テンプレートも手に入れている可能性があるとのことなので、偽の請求書を作るのは容易い。
本物の方は実際に課長まで決裁に回すが、偽物も本物のついでに作成し、それには自分で課長までの印を押せばいい。
偽物を経理部に回し、本物は横山に直接渡す。後は、横山がシステムをチェックする際に手を入れて、それで横領の完了というわけだ。
佐野電産に入金された金をどうやって振り分けているかは謎だが、そこは二人でルールを決めているのだろう。
「水無瀬さんも横山さんも、横領なんてする必要ないと思うんだけどな」
水無瀬は仕事もできて、容姿にも優れ、専務の娘との縁談も進んでいて、まさしく順風満帆。
横山だって、仕事ができると評判も高く、課長の小金沢も信頼を置いていろいろ任せている。小金沢が昇進する際には、次の課長は間違いなく横山だと言われている。その話も、そう遠い未来ではないと噂されているのだ。
どう考えても、横領など危険な橋を渡る必要などなさそうな二人なのに、どうして……。
理由など皆目見当もつかないが、それを追究するのは菜花の仕事ではない。
菜花はスマートフォンで、佐野電産の支払い依頼書の一式を、数ヶ月分撮影していく。アプリを使ってシャッター音は出ないようにした。それでも、いつ誰が入ってくるかわからないので、心臓がバクバクと暴れている。
「……これでよし」
なんとか写真を撮り終え、菜花はファイルをラックに戻し、デスクに戻る。ちょうどその時、昼休み終了を告げるチャイムが社内に鳴り響いたのだった。
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