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「お疲れ様ーっす! 遅くなりました!」
ドアの開く音と声が同時だった。その大きな音に、菜花は大きく身体を震わせる。
「ちょっと、結翔君! 静かに入ってこれないの?」
「あれ? 美沙央さん、まだ残ってたんだ?」
結翔は不思議そうな顔をしながら、皆がいる方へやって来る。そして、ようやく気が付いた。菜花の様子がおかしいことに。
「菜花? どうした?」
呆然と突っ立ったまま俯いている菜花の顔を覗き込み、結翔はぎょっとする。菜花の顔色が真っ青だったのだ。
「ちょっと大丈夫か? 気分悪い? それとも、お腹が痛いとか?」
「大丈夫だよ、結翔君。おそらく、そういうことじゃない」
冷静な金桝の声に、結翔は眉を顰めた。
明らかに様子のおかしい菜花を前に、これほど落ち着いてるとはいったいどういうことか。
その時、結翔はテーブルに広げられたノートに気付く。丁寧に鉛筆で描かれた人物画を目にし、すぐさまそれを手に取った。
視線のすぐ側まで近づけ、マジマジと眺める。テーブルに広げられた状態でもはっきりと見えていたのだが、じっくり確かめてみないことにはとても信じられなかったのだ。
「どうやら、結翔君も知っているようだね」
「ちょっと待って。これ、どういうこと?」
結翔が目を吊り上げてそう尋ねると、金桝は吐息し、結翔に席に着くよう勧めた。
結翔は菜花にも座るように促してから、金桝の隣に座る。その視線は、真っ直ぐに金桝に向かっていた。
金桝は美沙央と顔を見合わせ、静かに頷く。そして、経緯を話し始めた。
「実はね、結翔君が撮ってきてくれたユリさんの写真を美沙央さんに見せたんだ。ご存じのとおり、美沙央さんはかつて銀座の夜に君臨していた人だ。場所は違うけど、こういった仕事の人間関係は意外と狭い。もしかしたら、何か知っているかもしれないと思ったんだよ」
「銀座……? 夜?」
菜花の小さな声に反応し、美沙央が照れたように笑う。
「そうなの。若かりし頃、銀座のクラブに勤めてたのよ。これでも一応、有名な店のトップだったのよ?」
「え? 嘘! 美沙央さんがクラブ勤め……?」
「ふふ。実は、旦那はその店に通ってた常連だったの。で、惚れられて、口説かれて、一緒になったってわけ」
それを聞いて、菜花は一気に脱力し、テーブルに突っ伏した。
「はあぁ……。なんかもう、いろいろ情報が多すぎて、頭がパンクしそうです……。でも、美沙央さんならトップですよね。美人だし、色っぽいし、優しいし、頭もいいし」
「やだぁ、褒めすぎよぉ! 菜花ちゃんってば正直者! 可愛い! ねぇ、今度一緒にお買い物に行かない? 菜花ちゃんをプロデュースしたーい!」
「はいはい、美沙央さん、抑えて抑えて」
金桝のストップがかかり、美沙央は唇を尖らせる。そんな仕草が未だ似合ってしまうとは、甚だ恐ろしい。とても成人した息子がいるとは思えない。年齢不詳、これこそ美魔女というやつだろう。
美沙央の勢いに圧されたのか、つられたのか、菜花の顔色が徐々に戻ってくる。菜花自身も、やっと脳がきちんと回り始めたのを感じた。
結翔の顔を見て、同じことを思ったに違いないと確信する。だとすると、菜花の考えは間違っていないのだ。
「話を戻すよ。でもね、美沙央さんは彼女を知らなかったんだ。それでさ、完璧メイクのユリさんを見て、素顔はどんな感じなんだろうねって話をしていたら、今はメイクした写真から素顔に戻すアプリがあるんだって話になって、それを試してみたんだよね。でも、あまり上手くいかなかった。だったら、私が絵にしてあげるって、美沙央さんが言ってくれたんだ」
「私、どんなに厚塗りメイクしようが変装しようが、素顔が見抜けちゃう人だから。自分がメイク好きでもあるし、見れば、大体どういう風にしてるのかわかるのよ」
「ふえぇ……」
菜花の口から間抜けな声が出る。結翔もあんぐりと口を開けていた。
なんという特技なのだろうか。
美沙央がスマートフォンの画面を見ながら絵を描いていた様子を思い出す。
その画面には、店で美しく着飾ったユリが映っていたのだ。美沙央はその姿を見ながら、ユリの素顔をノートに描き出した。
「菜花君が以前、ユリさんと会ったことがあるかもしれないという話をしていたよね。もしかすると、普段よく見ている人物かもしれないと思ったんだ。それが見事に正解したようで、僕も驚いているよ。というわけで! 菜花君、結翔君、どちらでもいい、答えてくれないかな? この人物は、いったい誰なんだい?」
菜花は、そっと結翔を窺う。菜花が眉を下げているのを見て、結翔は無理をしなくていいと言って、後を引き受けた。
「じゃ、俺から。このノートに描かれた人物は……此花電機経理部の、高橋仁奈だよ」
素顔に近いナチュラルメイクに、長い髪を後ろで一つに束ねた仁奈の姿が思い起こされる。
ユリのあの完璧メイクから、美沙央はどうやってこの素顔を導き出したのか。誰が見ても、別人としか思えないのに。
しかし、ノートの描かれた女性は、高橋仁奈にしか見えなかった。
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