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「それでは、どうぞごゆっくり」
「ありがとう」
立派な個室に到着し、仁奈はそこでやっと手を離してくれた。
いつでも逃げ出せるようになったが、どこをどうやって来たのか全く覚えていない。これでは、とても逃げ出しようがなかった。
「どうしたの? 座って?」
仁奈はすでに腰を下ろしていた。向かいの席を勧められ、菜花は意を決してそこに座る。
ゆっくりと辺りを見回し、ハァと大きく息を吐き出した。
「緊張してる?」
仁奈がクスクスと笑っている。菜花はコクリと頷き、また息を吐いた。
「緊張しますよ。こんなところ、一生に一度だって来ることはないはずでしたし。こうして座っているだけで、どれだけお金がかかるのかと思うと……」
金の話など野暮なこととはわかっているが、口に出さずにいられない。
正直ね、と仁奈はまた笑い、菜花に安心するよう言った。
「杉原さんはただ楽しめばいいだけ。お金のことは心配しなくて大丈夫」
「でも……」
「杉原さんの送別なんだから、杉原さんに払わせるわけないでしょう?」
菜花に一銭でも払わせるつもりなら、こんなところへは来ないだろう。
菜花もようやく覚悟を決め、ありがとうございますと礼を言った。
「それにしても……すごいです。ここって、なんだか政府の偉い人とかが会合とかしそうなお店ですよね」
「そうね。そういうこともあるわよ」
「えっ!?」
冗談のように言ったのに、肯定されてしまった。
菜花の慌てように、仁奈がまた笑う。しかし次の瞬間には、彼女の纏う雰囲気がガラリと変わった。まるでこちらに挑んでくるかのような瞳で、菜花を見据えている。
「どうして私がこんな場所に出入りできるか、わかる?」
「……っ」
目の前にいるのは、菜花の知る高橋仁奈だろうか。
ほとんどノーメイクに近いナチュラルメイクに、長い髪を後ろに束ねただけの地味な髪型。服装といえば、オーソドックスな形、色のファストファッション。ごくごく地味で、平凡な女。
しかし今、そんな女はここにはいない。
姿形はそうでも、纏う雰囲気はまるで違う。そこらに埋もれる女のものではなかった。
「あ……のっ……」
「あら、今更驚くの? 杉原さんは、知っているんでしょう?」
「なっ、何を……」
「そんなに怖がらなくてもいいわ。別に、取って食おうってわけじゃないんだし」
仁奈は、形のいい唇を緩やかに上げる。口紅の色は目立たない地味なものなのに、妖艶さを醸し出していた。
ゾクリとする。同性にもかかわらず、誘惑されそうなほどの艶やかさだ。
「知っているんでしょう?」
もう一度、仁奈が問う。
菜花が黙りこくっていると、小さく肩を竦め、彼女は言った。
「私が、クラブ・アンジェのユリだってこと」
菜花は大きく目を見開いた。
やはりそうだったのだ。高橋仁奈は、ナンバーワンキャバ嬢のユリだった。本人の口から、今それが明かされたのだった。
*
「失礼いたします」
その声に、菜花はビクッと身体を震わせた。
障子が開き、店員が入ってくる。テーブルの上に豪華な料理を並べ始めた。
「こちらのお料理は……」
一つ一つ丁寧に説明してくれるのだが、そんな声など菜花の耳には入ってこない。
「相変わらず、とても美しいですね。それに美味しそう」
「ありがとうございます」
すっかり萎縮してしまっている菜花とは違い、仁奈はリラックスムードで店員と楽しげに会話を交わしている。
料理を出し終えれば、彼女たちは下がってしまう。できることならずっとここにいてもらいたいと思えど、そんなことは無理だとわかっている。菜花の心臓は、今にもはちきれそうだった。
「では、ごゆっくりお楽しみくださいませ」
そう言って去っていく彼女たちの背に、置いていくなと叫びたいのを必死に堪えながら、菜花は再び仁奈と対峙する。
思い出せ。自分が望んだのではないか。彼女を知りたい、と。
菜花は真っ直ぐに仁奈を見つめる。それを受け、仁奈も菜花と視線を合わせる。
「高橋さん……いえ、あえてユリさんと呼ばせていただきます。ユリさんは、水無瀬さんと付き合っていたんですよね? 彼のことを、好きなんですか?」
その言葉に、仁奈は初めて余裕を失ったように表情を歪めた。
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