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第3章 我が唯一は
1.望んで堕ちたのだから(SIDE セスラン)*
「セスランさ……ま……」
途切れがちの甘ったるい声。
女の使う安手の香料が身体にまとわりついて、気持ちが悪い。
闇にぼんやりと浮かんだ白い身体は、案外ふっくらとまるみがあって柔らかかった。
たっぷりとした胸を掌で覆うと、わざとらしい嬌声が上がる。
「き……もち……いい」
枕辺に散らばる白銀の髪、陶器のようになめらかな肌。
見上げる緑の瞳は、みだらに潤んでその先をと促す。
「もっと下を……。ほしいんです。セスラン様が」
白い太ももを自ら開いて、淡い銀の茂みを惜しげもなくさらし出す。
すっかり濡れて潤ったそこが、セスランのオスを誘い惑わせる。
「お願い。名前……、名前を呼んで」
緑の瞳、紅い唇が、懇願する。
「わたしだけが、セスラン様を救ってあげられるんだから」
目の前の少女とは、似て非なる緑。
最も美しいエメラルドの緑。
ヘルムダールの高貴な血を継ぐ証であるその瞳を思い出して、セスランはきつく目を閉じた。
けして届かぬ人だと、そうあきらめたはず。
「エリーヌ」
脳裏に浮かぶ笑顔を振り切るように、目の前の女の名を呼んだ。
「きて……」
誘われるままに、その白い足の付け根に腰を沈めた。
南の大陸にある大公家ゲルラは、初代黄金竜の弟が人の世に降りて興したという。
東のヴァースキー、西のヴェストリー、北のヴォーロフと並んで4大公家と呼ばれる名門である。
セスランはそのゲルラに、七歳になったその日引き取られた。
竜族が蛮族と蔑む白虎の里の外れ、そこでセスランは生まれた。
綿のように白い美しい髪にサファイヤの瞳をした母と二人、人目を避けるようにしてひっそりと暮らしていた。
「セスランの髪や瞳の色はとっても珍しいの。人と違えば目立つから。いじめられたりしないように、ここでお母さまと一緒に暮らしましょうね」
遠い昔竜族に敗れてから、白虎の一族は険しい山に囲まれた貧しい土地に住んでいた。その里からさらに外れた地であれば、食糧や水の調達さえ難しい。
セスラン親子の暮らしは、それは貧しいものだった。
からからに乾いた麦を挽いて作った団子には、小石や虫が混ざっていたし、水だって遠い川まで汲みに行くから、毎日の飲み水はけして新鮮なものではない。
けれど生まれた時からそうであれば、特に不幸だとは思わなかった。
美しく優しい母がいつも一緒にいてくれた。それだけで幸せだと、本気で思っていたから。
森へ入って、何か食べられそうなものを探す時でさえ、紅い髪や緑の瞳を隠すフードを被らなくてはいけなかったが、嫌だとか惨めだとかそんなことは少しも思わなかったものだ。
「おまえさえ生まれなければ、こいつももう少しはマシな暮らしができたのに」
ある時突然やってきた男が、セスランを見て眉を顰めて言った。
彼は母と同じ白い綺麗な髪を背中で1つに結わえ、やはり母と同じサファイヤの瞳をしていた。
その彼が時々セスランたちの家に出入りするようになって、食糧や衣類を運んでくれた。
母の兄だと名乗ったその人が、白虎の王族だとは後で知った。
ということは、母も王族なのだろうか。それがどうしてこんなところに隠れ住むのか。
幼いセスランには、伯父の言う「おまえさえ生まれなければ」の意味がよくわからなかった。
七歳になった日、セスランは自分の生まれを初めて知った。
竜族の、それも4大公家であるゲルラの当主を父に、白虎の王女を母としてセスランは生まれたのだ。
白虎族にはいない紅い髪も緑の瞳も、ゲルラの血を継ぐなによりの証だった。
遠い昔竜族に敗れてから、白虎の一族は竜を心底憎んでいる。
それなのに王族の血を継ぐ女が、仇敵の子を産んだ。
白虎の一族にとって、耐え難い屈辱だった。
だからセスランは、隠れて暮らさなくてはならなかった。
だから母は、一族を追われた。
それがわかった時、セスランは母との別れを了見する。
伯父が言ったとおりだと思ったから。
「おまえさえ生まれなければ」
セスランさえいなければ、母はきっと一族の元へ帰れる。王族として、今よりはマシな暮らしができる。
忌まわしい出自の息子を愛してくれた母に、せめてものそれが恩返しだと。
「母上、どうかお元気で」
どうか幸せになってほしい。
涙も見せずに、セスランは母と別れた。
迎えの飛竜に乗せられて、そのまま父の城へと向かった。
石造りのいかめしい城、黒塗りの鉄柵でぐるりと要所を固められた要塞のような城が、ゲルラ大公家の本城だった。
城への出入りには、必ず堀の上にかけられた橋を通らねばならず、その橋の両端には衛兵が詰めている。
飛竜はその上をばさりと飛び越えて、城内に着陸した。
広い中庭には、紅い髪の男とメイドらしき女性が数人立っていた。
「初めてお目にかかります。セスラン様付きの執事レイノーと申します。今後はわたくしが、あなたさまのお身の周りのお世話一切をいたします。なんでもお申しつけくださいますように」
幼いセスランにはその男が何者か、わからなかった。執事とは何をするものかすら。
ただ彼の紅い髪を見て、ほっとしたことだけはよく憶えている。
初めて見る、セスランと同じ色の髪だったから。
セスランの居室には、跡継ぎ公子のために用意された部屋があてられた。
重厚で見るからに贅沢で、食うや食わずの暮らしをしていたセスランには、かえって居心地が悪く落ち着かない。
「そのうち慣れますよ」
初対面の挨拶時より幾分くだけた調子で、レイノーは笑った。
そしてこれから長い付き合いになるのだからと、自分の年齢は27歳でゲルラ公家の傍流にあたる子爵家の次男だと説明してくれた。
次男であればどこかへ養子に行くか、そうでなければ何かしらの役目について自立せざるをえない。
彼の場合、幼いうちにゲルラ公家へ出仕することを希望して、今に至るのだそうだ。
「地方の子爵家の、しかも次男ですからね。さっさと割り切ってしまった方が人生楽しめます」
レイノーはさっぱりした気性のようで、セスランの警戒心を気にした風もない。
膝をついてかがみこみ、セスランと目線の高さを合わせる。
「セスラン様は、間違いなく嫌な思いをなさるでしょうね。母君のこと、セスラン様ご自身のこと、聞き苦しいことをきっと耳になさるでしょう。覚悟しておかれますように。けれどセスラン様には聖紋がおありです。ゲルラの翡翠の瞳と聖紋を持つあなたは、次の当主。それをお忘れにならなければ、案外楽しくやってゆけるはずです」
レイノーは、そうしてにっこりと笑った。
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