第4章 相愛の竜

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12.大団円の幸せ 「エリーヌ……。あれをどうせよと?」  美しく整った顔が、あからさまに歪んでいる。エリーヌの名は、セスランのトラウマを刺激するらしい。 「どうとは、セスランもおわかりでしょうに。実家へ戻らないと、まだごねているのですわ。それでナナミが、そろそろわたくしに強権発動せよと申しまして」  今朝結い上げてもらった銀色の髪は、まだ一筋のおくれ毛もないはずだった。セスランのお気に入りの髪型で、そのふんわりとした優し気な頭を緩く左右に振って、哀し気な表情でパウラは続ける。 「わたくしもわかっているのです。やらなくてはならないことだとは。けれどエリーヌの顔を見てしまうと、つい気持ちが沈んでしまって。セスラン、あなたがかつて彼女を愛したのだとそう思ったら……」  完璧な右ストレート。  セスランの翡翠の瞳が、たちまちうろたえる。   「私の唯一(つま)は、今も昔も未来も来世も、永遠にパウラだけだ。そんな悲しそうな顔をしてくれるな」  あからさまにおろおろと取り乱すセスランに、ナナミははぁとこっそりため息をついた後、パウラに「めっ」と視線を送る。 「あの……わたくしは、また後で参ります」  こんな様子を見ていられるはずもない。ナナミの判断は正解だ。  この世で最も力のある竜族の長が、最愛の唯一(つま)を前におろおろと取り乱す様子など、正視できるものはそういない。 「あれを戻せば良いのだな。わかった。すぐに処理しよう。だからパウラ、どうかあれのことは忘れてほしい。私を嫌わないでくれ」  泣きそうにさえ見える潤んだ翡翠の瞳に、少し薬が効きすぎたとパウラは後悔した。けして虐めたいわけではない。少しだけ意趣返しをしてやりたかっただけなのだ。  今でこそ眉を顰めるほど嫌っているが、前世セスランはエリーヌに誑かされた。その結果、パウラは飼殺しの側室として数千年を乙女のままで過ごしたのだ。ふとした拍子に前世の記憶が蘇り、セスランの隣に立って勝ち誇ったように笑うエリーヌを嫌でも思い出す。  その時の嫌な気分といったら。夫の浮気を知りながら許す妻とは、こんな気分なのかと思う。  ヘルムダールの母に相談したところ、経験がないからパウラの参考になるようなことは言ってやれぬとすまなそうに言われた。  この件について、より役立つ答えをくれたのは父であった。 「パウラにそんな思いをさせたのだから、新黄金竜(オーディ)には生涯その重荷を背負っていただかないとね。いいんだよ、パウラは悪くない。思い出した時には、つらいと言ってやりなさい。ただね、それを言う時には必ず言い添えることだよ。『わたくしはあなたをずっと愛しておりますわ。だから苦しいのです』 でも気をつけなさい。これを言ったら、その夜は眠れなくなるから」  女性よりも美しい繊細な美貌の父は、小さくくすりと笑ってパウラに知恵をつけてくれた。  ああ、そうだ。  父の言う「必ず言い添えること」を、まだ言っていなかったと気づく。 「嫌う? 嫌いになれるはずありませんわ。だってわたくし、昔も今もこの先もずっとあなただけを愛しておりますもの。だからこんなつまらないことを……。ごめんなさい」  父に教えられた言葉に多少アレンジを加えて口にすると、不思議なものでパウラも本心からそう思っていたような気分になってゆく。  いや、本心だ。前世からずっとセスランを愛していたのは本当だし、だからエリーヌを許せないのも本当の事。つらいのも、本当だ。  さすが父。こと母アデラ限定の恋愛脳は、伊達ではない。  セスランの翡翠の瞳がこぼれんばかりに見開かれ、白皙の頬にかぁっと血が上る。 「パウラ、私の最愛の唯一(つま)。なんと嬉しいことを。ああ、私もだ。私もパウラだけを愛している。他の誰も私のこの目には映らないのだと、パウラにその証を見せてやれたらどれほどいいか」  甘い。恥ずかしくなるほどに甘いセリフを、セスランはさらりと口にして憚らない。こういう時のセスランは、確かに名門の貴公子なのだとよくわかる。  パウラ以外には言ったことはないと本人は断固否定するが、貴公子の嗜みとして貴婦人の扱いをしっかり習得したのだろうなと思う。けれど生憎パウラには、その嗜みに関する免疫がまるでない。夫であるセスランの甘いセリフが降るたびに、頭はグラグラ心臓はバクバクとなる。 「あの……セスラン。もう、わかりましたわ。だから……その、もうそれ以上は……」  呼吸が止まってしまうから、もうやめてほしい。そう懇願する前に、きゅうっと抱きしめられた。  愛しく懐かしい薔薇の香りが、パウラの鼻先をくすぐる。 「しかけたのはパウラ、君だ。ここでおあずけなど、それは聞けぬ相談だ」  美しい唇の端をわずかに上げて、かすれた声で囁く。 「その夜は眠れなくなるから」  父の言葉の最後の部分を思い出す。  その意味を、結婚後1年も経てば、さすがのパウラも理解していた。けれどまだ日も高い。それにナナミも後から出直してくると言っていたし。  今はだめだと言いかけた唇に、熱っぽい温もりが降りてくる。湿った温みは、もう何度もパウラが翻弄されたそれで。 (ああ、もう今日は終わった)  逆らえないことを、パウラは知っていた。逆らえない、いや逆らいたくない。  続きの間の寝台に、セスランがパウラを運ぶわずかの間、前黄金竜(オーディ)の最後の姿が浮かんだ。  弱った身体、絶え絶えの息の下で、愛してもくれない竜后のために狂乱した彼の気持ちが、今は少しだけわかる。  唯一と決めた相手を恋うる気持ちには、条件など要らない。  前世のパウラがそうだったように、前黄金竜(オーディ)がそうであったように、相手が自分を愛してくれなくとも恋しいと、ひたすらに相手を求めてやまない。  愛し愛される現在とは、なんと有り難く幸せな時間なのだろう。 「セスラン」  愛しい夫の名を呼べば、翡翠の瞳が愛し気に見つめて無言の答えを返してくれる。 「愛していますわ」  その答えは、パウラの唇にそっと返された。
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