雨音は誰かを待つ音

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 雨の音が嫌いだった。その音が聞こえるときは大抵、ぼくが一人でお母さんの迎えを待っているときだからだ。  小学校の六時間目の授業が終わったのが午後四時、腕時計の短針は、既に七時を指していた。遅くまで働いているお母さんの帰りを待っていたぼくは、学童保育教室の窓辺で視界を曇らせる雨を眺めていた。  鉛のような太い雨が、グラウンドの赤茶色の砂に波紋を作り続けている。激しい音を立てながら降る雨のせいで、もはやグラウンドは大きな水溜まりだった。  そんな景色を見つめながらぼくは、この退屈な時間と迎えに来ない母さんのことをぼんやりと考えていたが、窓の隙間から漏れる冷気に耐えられなくなり窓辺から離れた。  そうして振り返り、この教室全体を見渡す。  落書きのあとが残る黒板、明かりの消えた蛍光灯、踏み心地の良いパステルカラーのマット、本来ランドセルロッカーだった場所には、子供用のおもちゃ箱が入っており、他の生徒が既に帰ってしまった今は綺麗に片づけられていた。  今日は生徒の帰る時間も、大雨のせいかいつもより早い。  二時間ほど前までは、親の迎えを待つ三十人ばかしの小学生たちで溢れていたが、今となっては、残っているのもぼく一人なのだった。学童保育の先生も、ぼくがトイレへ行って戻ってくると子供が全員帰ったのと勘違いしたのかいなくなっていた。 「誰もいない」  閑散とした教室に一つ、ぼくの発した声が落ち、そして静かな空気の中へ消えていった。 「お母さん、まだかな」  言ってみたものの、お母さんが来ないことは分かっている。普段の迎えでさえ七時を過ぎるというのに、大雨のせいで道路が渋滞しているという話を先生がしていたから、今日は八時を過ぎることだろう。 「でもいい、気にしない」  気にしない、お母さんがぼくのことを好きじゃないように、ぼくだって好きじゃないから気にしないんだ。  最近、お母さんとぼくは、会話をする時間が減った。  ぼくが話しかけると疲れた顔で「ごめんね」とお母さんは謝ることが多い。  仕事が忙しいんだって。  ぼくのために働いているんだって。  だからこうして、いつも遅くまでぼくは、お母さんの迎えを待っている。  遅くまで待たされているんだ。 「大丈夫、大丈夫」  家に帰ったって、どうせ一人みたいなものだから。  自分に言い聞かせるようにそう呟いてみたが、どうしてだか喉の奥がきゅっと絞められるような感覚があって、それから心の中がざわつき始めるのだった。 「絵を……描いて、待とう」  声が詰まって、しゃっくりしたときみたいに言葉が途切れてしまう。ぼくは、自分の心の器から不安が溢れ出すよりも先に、ランドセルを背負い安全帽をかぶって教室を出た。  学童保育教室の外は、当たり前だが雨が降っていた。それも、室内から見えていた景色なんかよりもずっと土砂降りだった。 「うわあ、すごい雨」  ぼくのそんな驚いた声も、このザーザーと激しい雨音にかき消されてしまい、きっと口元辺りでなくなっただろう。鼻歌を歌ったとしても、誰かに盗み聞かれる心配はなさそうだが、生憎そんな呑気なことができる気分ではなかった。寧ろ、この大雨の中を歩かなければ思うと一歩踏み出すことさえ雨の勢いに気圧されそうになる。  足元が水飛沫で見えないほどだった。  それでも裏庭はすぐそこなので、恐る恐る傘をさして軒先から一歩踏み出すと、握っていた手に雨粒が傘を打つ重たい感触が走った。それだけでなく足元では、はねた水が長靴の中に入り込んで、靴下が濡れてくる。ぼくは、表情を歪めながらも裏庭を目指して歩き始めた。  ドダ、ドダ、ドダ、と、雨粒が傘を打つ。  ドコ、ドコ、ドコ、と、雨粒が教室の鉄屋根に落ちる。  バシャ、バシャ、バシャ、と、雨粒がアスファルトで弾ける。  ぼくは一人、独りだから雨の音を聴き分けて歩いた。  目的地である裏庭というと学童教室のすぐ裏にあり、徒歩三十秒ほどだ。そんな学童教室は、小学校の校舎からほんの少し離れた位置にあり、一応は敷地内ではあるものの隅の方だった。 「靴下、ぐしょぐしょだ……」  裏庭の東屋に入るとすぐに長靴を脱いで、靴下に触れた。それは雨に濡れて冷たかったが、しかし、長靴の中で蒸れてしまったのかどこか生温く、何だか気持ちが悪くてそれも脱ぎ捨てた。素肌が空気に触れると、涼しくて気持ちが良かった。  ランドセルをおろして流れるように中からスケッチブックとクレヨンを取り出す。そこまできてようやく、ぼくは一息ついて東屋の椅子に腰を下ろす。幸い、東屋の中は、風が吹いていなかったからか雨水が侵入している様子はない。それもあって、気分は教室の中にいたときよりも随分と落ち着いていた。  深く息を吐き終えて、ぼくは辺りの景色を改めて眺める。  大きなソメイヨシノの木、その元にある砂場は一面がブルーシートに覆われて、先程から雨がぱりぱりと音を立てていた。鉄棒も、ブランコも、人っ子一人いない。  雨粒を静かに受け止める紫陽花の群れがちょうど東屋の目の前に植えられている。淡い藍色と綿菓子みたいにふんわりとした白色が、紫陽花のがく片と花弁をグラデーションで彩っている。  そんな賑やかな紫陽花の群れ。  紫陽花の葉の上をカタツムリの親子が歩いていた。  ぼくはスケッチブックを手に取り、ページをめくる。母親が来るまでの間、紫陽花の絵を描こうと思ったのだ。白紙のページを開いて、鉛筆を走らせると黒鉛の削れる乾いた音がした。その音が絶えず聴こえていると、時間はあっという間に進んでいることが多い。  集中。  絵を描くことは、気持ちがいい。  紫陽花の細くぼやけた輪郭を重ねてなぞっていると、いつまでもこうしていられるような気がした。そうして書き続けていると、雨粒が一つ迷い込んできてぼくの腕で弾け、その冷たい感触に鉛筆を握っていた手が止まる。  一息。  深く息を吐いて、背もたれに体重を預ける。それから腕時計を確認すると書き始めてから三十分も経過していることに気が付いた。  雨はまだ止まず、迎えは来ていない。  鉛筆を握っていた手がぶるぶると力んで震え、無意識に歯を食いしばっていたぼくは、しかし、やるせなくなって脱力してしまった。 「母さんなんていなくてもいい」  呟いてみたが、その言葉の意味を反芻して少しだけ、また胸のあたりが重たくなる。その重みに任せて背もたれに体重を預けていると、だんだんと背中が痛くなってきたため、ぼくは体を起こしたが、再び絵を描く気力までは起こらなかった。  やることがなくなって、スケッチブックの紙面に描かれたまだ途中の紫陽花をじっと睨みつけていると、赤いランドセルを背負った女の子が一人、東屋に入ってきた。  女の子は、桃色の傘を何度か開いては閉じて雨粒を払うとこちらに振り向いた。そうしてぼくを認めると彼女は目を丸くして言った。「充? まだ迎え来てなかったんだ」 「……佐藤」  彼女は、被っていた安全帽子を取って机を挟んでぼくの前に座った。「お前の方こそ、なんでこんな時間まで」 「お父さん、今日仕事遅くまであるんだ。でも、よかった一人じゃなくて」  佐藤は、呑気にこちらを見てそう言ったが、その視線から逃れるようにぼくは目を逸らしてしまった。同い年の女子と二人きりというのは、何だか恥ずかしかった。誰かに見られていたらからかわれてしまうに違いない。  それにしてもどうして佐藤なんかと一緒なんだ。 「教室に忘れ物取りに行ってて、戻ってきたらみんないなくなってるんだもん。焦ったよ、あれ、そういえば充は何で裏庭にいるの? 雨、こんなに強いのに」  ぼくが黙ったまま、スケッチブックを手に取り描きかけの紫陽花を見せると、彼女は何か納得したように頷いて言った。「昔からそうだけど、上手だよね」 「……そんなことない」  不愛想に答えて、ぼくはスケッチブックを閉じて東屋の机の上に戻した。  どうしてだか、耳たぶが熱い。冷涼な風が肌に触れて、ぼくは自分の身体に起きているその異常に気が付いた。気分は悪くないが、落ち着かない感覚だった。  落ち着かず、佐藤をじっと見ていられなかったぼくは、意味もなく自分の手元を見つめることしかできずにいた。  佐藤はただ同じクラスで、隣の席で、家が近所な幼馴染なだけだというのに、それだけなのに、最近ぼくは彼女と上手く会話することができない。  心臓が、ばくばくと音を立てている。  それはまるで雨の音のように絶えず、聞こえているのだった。 「そんなことあるよ。私この絵とか好きだなあ」  佐藤の明るい声がして、慌てて彼女の方を向くとぼくのスケッチブックが開かれていた。どうやら彼女は、他人のスケッチブックを勝手に覗き見ていたらしい。  彼女が見ていたページには、お母さんと海に行ったときの絵が描かれていた。 「充、お母さんと仲良しなんだね!」  ぼくのスケッチブックには、お母さんとの思い出が閉じ込められている。家族がばらばらになる前の思い出、スケッチブックを開けばあの優しい日々に触れることができた。 「別に仲良くないし……」  ただ、帰って来ないあの日々を思い出したいとは思わない。閉じ込めた思い出をこじ開けるのは、きっと苦しいだけだから。  佐藤は楽しそうにぼくの絵を見ていた。 「絶対仲いいじゃん、羨ましいな」  そんな彼女が、次のページをめくろうと手を伸ばしたので、ぼくは慌てて机の上に置かれていたスケッチブックを奪い取った。 「返せよ」  強がり、なのかもしれない。  忙しくて構ってくれないお母さん。そんなお母さんにぼくは、どうして欲しいのだろう。  ぼくは自分がどうしたいのか分からなくなっていた。 「あ、見たかったのに……」  佐藤の声が、ぽつりと現れて雨の音に消えた。  それは寂しそうな声だったけれど、彼女はそんなことすぐに忘れてしまったみたいに空を見ていた。風が強くなってきている、そのことを気にしているのかもしれなかった。  だからぼくは何も言わず、ランドセルを背負って傘をさした。すると彼女も、こちらの意思を掴んだのか後をついてきた。 「中、戻ろう。風、強くなってきた」  ぼくは言って、二人で東屋を出た。  学童教室の中には、ぼくと佐藤の二人だけだった。部屋の中は、真っ暗とまではいかず、仄暗い。静寂と雨音だけが絶えず世界を満たしていた。天井を打ち、窓に弾け、アスファルトを跳ねる、そんな色の異なる雨音だ。 「見て充、グラウンドが波打ってる……海みたい」  教室の窓辺で、佐藤が幻想的なものを見ているみたいにうっとりとした声で言った。そんな彼女の隣まで歩き、窓の外を見るとグラウンドに溜まっていた雨水が強い風に吹かれ海のように波打っていた。  ぼくが、黙ったままその様子を眺めていると、佐藤はどこか寂しげに呟いた。 「お父さん遅いなあ、そんなに道路混んでるのかな……はやく帰りたいね」  帰りたい、佐藤の言葉にぼくは数秒の間を置いて答えた。何と答えるべきか、考える時間と言葉を発するのに不安があったからだ。迷いがあったのかもしれない。 「ぼくは、帰らなくていい」  その声は、佐藤とぼくのわずかな距離で消えてしまうほどに小さかっただろうけれど、彼女には十分に届いていたようだった。 「どうして?」 「帰ったって一人なのは変わらないから」 「お母さんはいないの? お仕事?」 「いるけど、疲れてるから話しかけて欲しくないんだってさ」  佐藤が一瞬、言葉をつぐんだのが分かった。ぼくはその間を縫うように詰めて続ける。 「でもいい。一人でも時間は潰せるし、困らないから」  困らない、困ってなんかないんだ。このまま迎えなんてこなければいい。いっそのこと一人で生きて、誰も待たずに生きてやる。 「お母さんはさ、お父さんと離婚してから毎日疲れてるんだって。そんなに疲れるんなら、ぼくのことなんてお父さんに預ければよかったのにね」  言葉が冷えていた。  夜の雨みたいだった。 「疲れてるとか、忙しいとか、大変だとか、ぼくのために働いているとか、そんなこと言われたってどうしようもないよ。ぼくはただ」  昔みたいに仲良くしたい。  そんな言葉の続きが喉まで出かかって、しかしぼくは、空を潰すように拳を握り、言葉を飲み込んだ。 「早く大人になりたい」  飲み込んで、代わりに出てきた言葉がそれだった。  大人になって、はやく一人で生きられるようになりたかった。  佐藤に言ったって仕方がなかったけれど。 「……私も、早く大人になりたい」  意外なことに彼女は、ぼくと同じことを返したのだった。ぼくは驚いて彼女のことを見つめたが、その凛とした表情の奥で一体何を考えているのかまでは分からなかった。  もしかすると、彼女も一人で生きたいと思っていたのかもしれない。  佐藤の心の内を想像してぼくは、暗闇の中で何かを探すみたいに恐る恐る訊いた。 「佐藤はさ、どうして大人になりたいの?」  彼女が口を開きかけて、しかし、言葉を探しているのか声を発するまでに数秒の時間があった。 「何となくだよ、大人って楽しそうだから。車にも乗れて、好きなお菓子も好きなだけ食べられて……でも大人になったら」 「大人になったら?」 「お父さんを送り迎えしてあげたいなあ」  佐藤は言って、少し笑った。 「してもらった分は、返してあげたいからさー」  照れ隠しだったのかもしれない。  親に対して気遣いができる、そういう面で佐藤はぼくより大人だった。 「充はどうして大人になりたいの?」 「……家を出たいんだよ。その方が、楽だと思うから」 そうしたらお母さんの疲れた顔を見なくて済む。苦しくて、辛くて、悲しくて、独りぼっちで待ち続ける必要もなくなる。  もう、お母さんを待つ必要もなくなるんだ。  だからぼくは、大人になりたい。 「充、偉いね」 「え?」 「だって、お母さんに楽をさせてあげたいから大人になりたいんだよね!」 「そんなんじゃ……ないよ」  家を出たいのは、ぼくが楽になりたいから。  ただそれだけだった。 「違うの? じゃあ何で?」  それだけのことなのに、佐藤には伝わらなかった。  ぼくはぶっきらぼうに言葉を紡ぐ。 「お母さんなんていらないから」  佐藤は、首を傾げてきょとんとぼくを見る。彼女には、ぼくの気持ちが分からないのだと、ここまで来てようやく気が付いた。  親がいなくたっていい、この気持ちはぼくの独りよがりなのだと分からされた気分だった。佐藤の親は、忙しくても彼女のことを構ってくれるのだろうか。  もしも、そうなのだとするとやはりぼくは、独りぼっちだ。  あの寂しさも、悲しさも、ぼくの知る気持ちの全ては誰にも分かってもらえない。  お母さんも、佐藤も、知らない。  だったらこの気持ちを誰に、どこに、何にぶつければいいのだろうか。そんな苛立ちが、ぼくの中で、もがき始める。  そんなことなど露知らず、佐藤は言ってきた。 「充は、お母さんのこと大好きなんじゃないの?」 「好きじゃないって」 「嘘だよ、あの絵を見たら充がお母さんのこと大好きだって分かるもん」  あの絵。 「スケッチブックの絵」 スケッチブックの絵、思い出を閉じ込めた絵。 「充……なにをするの?」  ぼくは、窓を開けた。冷たい外の空気と雨水が教室に入り込んでくる。そんなことに構うことなくぼくは、ランドセルの中からスケッチブックを取り出した。  佐藤は、不安げにぼくのことを見つめていたが関係ない。 「いらないんだよ」  スケッチブックを広げて、お母さんの絵が描いてあるページが束になるようにぼくは掴んだ。乱暴に、くしゃくしゃと紙が音を立てるのも気にせず、掴んだ。  ルーズリーフの穴、その幾つかが力に引っ張られてちぎれた。  紙がぶちぶちと、無力にも小さな悲鳴を上げる。  思い出が悲鳴を上げる。  ぼくは佐藤の顔を隠すように目の前にスケッチブックを掲げた。  腕時計の短針は、八時を示している。  お母さんは、もうすぐ迎えに来るかもしれない。  あるいは、来ないかもしれない。  もうどっちでもいい。 「やめなよ、なにしてるの!?」  そんな佐藤の声を無視してぼくは、力任せにお母さんの絵とスケッチブックを引き裂いた。引き裂いて、さらに引き裂いて、もっと引き裂こうとしたけれど、紙が分厚くなってそれ以上は破けなかった。  こんなの塵になればいいのに、子供のぼくには力が足りなくて、どうしようもなくて、絵の中のお母さんの笑顔が未だにちらついて、悔しくて、もう後戻りはできないことに苛ついて、ぼくは紙くずを、思い出を見えないように丸めた。  お父さんと、お母さんと、三人で過ごした夏のことも。  三人で、意味もなくどんぐりを拾った秋のことも。  お母さんと二人で作ったかまくら、冬のことも。  入学式の春のことも。  全部、いらない。 「なんで……なんでそんなことするの?」 分からない。  ぼくは、佐藤の前でどうしてこんなことをしているのか。  お母さんに何をして欲しいのか。  全部、分からない。  分からないけど、胃がきりりと痛む。  痛みに耐えるように、苛立ちをかみ殺すように、歯を食いしばったぼくは、丸めた紙くずを窓の外へと投げ捨てた。  佐藤は、ぼくを睨みつけて何か言いたげだったけれど、分け目も降らず外へ出て行った。もしかすると、ぼくの捨てた紙くずを拾いに行ったのかもしれない。今頃は、クレヨンが雨に滲んでもうどうしようもないことになっているだろうけれど。  ぼくは、教室の壁にもたれかかり、目を瞑った。  心臓が耳元にあるみたいに大きな音が絶えず鳴っている。  息が熱い、泣きそうだった。  しかし、ぼくは涙をこらえて目を瞑り、世界の音を聴いた。  頬を撫でる冷ややかな風の音、アスファルトを打つ雨の音。  教室の中で聴こえる音は、いつものお母さんを待つ音だった。  間もなくして、佐藤のお父さんが彼女を迎えに来た。彼女は、ふやけた紙くずを握りしめて泣いていた。  ぼくは、そんな彼女が車に乗り込むところを何も言わず見送った。  その五分後くらいにぼくのお母さんが迎えに来た。  車の中は、静かだった。  ワイパーの擦れる音と、雨が天井を打つコツコツという音のみで、お母さんの好きな音楽もかかっておらず、疲れているのか会話一つない。 「お母さん、ぼく……」  ぼくは、そんなお母さんのハンドルを握る手を見ながら話しだした。 「ぼく、ぼくさ……」  スケッチブックを捨てたこと、それ以上に意味もなく佐藤を傷つけてしまったこと、それを話そうとして、言葉を探しているうちに目のあたりがぼうっと熱くなって、どうしてか視界が海のように揺らめき始めた。 「どうしたの?」  赤信号で止まったお母さんが、そう言ってぼくの頭を撫でると、今まで堪えていたものが一瞬にして溢れ出してしまった。 「ぼ、く……」  頬を伝う涙が雨のようにポツリ、ポツリと落ちて車のシートに染みていく。そのことさえもが申し訳なくてぼくは、それ以上言葉を紡ぐことができなかった。  やがて信号機が青になってしまったが、それでもお母さんは、片手でぼくの頭を撫で続けてくれた。家に到着し、駐車場に車を止めるとお母さんはぼくが落ち着くまでの間、ずっと手を握ってくれた。  そうしてぼくが、スケッチブックを破り捨ててしまったことや、佐藤を泣かせてしまったことを話すと、お母さんは少しだけ険しい顔になって言った。 「スケッチブックは、また買えばいい。でも、佐藤さんにはちゃんと謝らなきゃいけないよ。それは充が悪いんだから」 「ごめんなさい……いつも、迷惑かけて」  お母さんの言う通りで、ぼくが何も言えずに俯いていると頬に柔らかな手が触れ、思わずそちらを見上げてしまう。  お母さんは笑っていた。 「明日、お母さんと一緒に謝ろう」 「ごめんなさい……」  またぼくは、お母さんを疲れさせてしまったのだろうか。そう思えてならなくて、ぼくは謝ることしかできなかった。  そのうちお母さんがご飯にしようと言ってぼくを車から降ろしたが、ぼくの頭の中は明日、佐藤にどんな顔をして会えばいいのかという不安でいっぱいだった。
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