傘の中で聴いた雨の音

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「傘を打つ雨」西谷水 ――ぱらぱらと雨が降っていた。  降る雨は、保育園を出たところにある水たまりに音もなく波紋を立てていた。  ママは、ぼくが雨に濡れて風邪をひかないようにいつも傘をさしてくれた。  ビニール傘に落ちた雨粒が小さくぱちぱちと弾けているのを聴きながら、ぼくはママに手をひかれて歩いた。ぼくには、他のお友達みたいにかっこいいパパはいないけど、ママは負けないくらいかっこいい。  いつも迎えに来てくれてありがとうママ。 ――ざあざあと雨が降っていた。  降る雨は、ボロボロのランドセルの表面に雨粒を作っては染みていった。  ぼくの家は、お父さんがいないから貧乏で、ランドセルも従兄のお下がりだった。ぼくの友達はみんな、黒光りする新しいランドセルなのに。  ぼくはいつも、友達にそのことをいじられて恥ずかしい思いをしている。  これも全部、お母さんのせいだ。 ――しとしとと雨が降っていた。  降る雨は、霧状で舞い散る桜の花弁とアスファルトを湿らせていた。  その日は、中学校の入学式だったが、俺は正直なところ早く帰りたい気持ちでいっぱいだった。本当は、こんな学校に入りたかったわけじゃない。小学時代の友達が多い北中学校に入りたかった。それなのに母さんは、家から遠いだの不良が多いだの言って認めてくれなかった。  母さんは、そんな俺の気持ちなんて露知らず、一緒に写真を撮ろうなんて言ってきたものだから、無視して一人家に帰った。  霧雨のせいで、従兄からもらった学ランの肩のほつれた部分から水が染みていた。 ――ぽつぽつと雨が降っていた。  真夜中、布団の上で眼を瞑っていると母親が帰って来たのか、玄関の方で物音がした。  降る雨は、ときどき家の屋根の上でポツリ、ポツリと小さな音をたてていた。  俺が高校生になって以来、母親はまなしに働いていて家ではあまり会わなくなった。とは言え、会わない理由はなにも時間の都合だけが原因じゃない。俺が意図的に会わないようにしているということも、理由の一つにはあった。  会いたくなかったんだ、母親のことが嫌いだったから。  俺の学費を稼ぐために働いてくれているのは、分かっていたが、それでも毎日あんなに疲れた様子を見せられていては、こちらもどんな態度をとるべきなのか分からなくなる。案外、子供なんて生まなければ良かったと今更ながら母親は思っているのかもしれない。それもそのはずで、俺がいなければ彼女がここまで苦労する必要はないのだから。  俺がいなければ、あなたはそんなに惨めにはならなかったはずだから。  そう思っていたとしても、自分に何かしてあげられるわけじゃない。 俺だって生まれたくて生まれてきたわけじゃないんだ。 その夜、俺は逃げるように眠った。 ――ぱらぱらと雨が降っていた。  降る雨は、網戸の向こうに見える駐輪場の屋根を軽く打っている。  高校を卒業した俺は、はやく親元から離れたかったこともあり県外に就職した。一人で、生きるのは想像していたよりもずっと楽で、ここ一年半ほど働いて稼いだお金も自分のために使い放題だった。今まで母親のせいでずっと貧乏な暮らしをしてきたが、ようやく解放されたこの暮らしは、今のところ悪くない。  なにより、あの惨めな母親を見なくて済む毎日は、随分と気が楽だった。連絡なんて殆ど取っていない。たまに俺の体調を気遣っているようなメッセージを彼女は寄越してくるが、それにも「大丈夫」とだけ返事している。  俺は、ベッドで横になって目を瞑った。そうして、ぱらぱらという雨の音を聴いているうちに眠ってしまった。 ――ばちばちと雨が降っていた。  窓の外は暗闇に包まれていたが、鉛のような雨が強くアスファルトを打っており、その音を辺りに響かせていた。駐輪場全体が、水たまりとなっているのか、街灯が反射して映った水面に波紋が見える。  降る雨の激しさは、部屋の中にまで伝わってくるほどだった。  俺は、ベッドから半身を起こし、外の世界をぼんやりと眺める。  仕事は一年ほど前に辞めて、今はシナリオライターを目指していた。元々、映画や物語を観るのが趣味だった俺は、それを仕事にできればいいと思った。  バイトをしながら、足りない分は貯金を切り崩して生活している。  シナリオを書くのは、楽しいだけじゃなく思っていたよりも苦しい。  一日、頑張って書いて五千字といったところで、それも十数時間ぶっ続けて書いてそれくらいという話だ。しかしながら、依頼は二週間で七万字と、作業量と収入が割に合わないものばかりだった。 睡眠時間が二時間を切ることなんてざらにある。  今日は一時間も眠っていない。  時計の短針は、十二時を指していた。  そろそろ、バイトの時間だ。  脱ぎ捨てられていたスラックスを拾い上げ、足を通す。  分かっている、こんな暮らしが長くは続かないことくらい。  腐りかけの二十五歳。  家の扉を開けると、酷い雨だった。 傘は、ボロボロのビニール傘を自分でさすしかない。 ――しとしとと雨が降っていた。  霧雨のような雨が降っていたが、俺は相変わらず空っぽのマンション、自分の部屋のベッド上にいた。真っ白な天井を眺めている。  正直もう、映画も、物語も、シナリオもどうでもよかった。  ただ貯金が底をついて、生活に余裕がなくなって、生きることにも気力を失っていた。  二十六歳、すがるものは何もない。  働き過ぎて身体はボロボロだった。  もがき過ぎて心は空っぽだった。  何もかもが嫌になって目を瞑ると、土っぽい雨の匂いがした。それから大きく息を吸うと、澄んだ空気が胸いっぱいに流れ込んでくる。 足りるはずがない。そんなものでは満たされるはずがない。  もっと深いところに黒い穴が空いている  俺はやりきれなくて無意味にベッドを殴ったが、何一つ現実は変わらなかった。滅茶苦茶に破滅的で惨めな人生だった。惨めさは切り捨てて生きてきたはずなのに、こんな空っぽな場所でもがく俺は、耐えられないほど惨めだ。  網戸から流れてくる空気が肌寒い。思わず丸まった姿も、きっと惨めだ。  誰も救ってくれないことは分かっているのに、俺はまだもがいている。  幼い頃の惨めな日々を嫌悪するように。  誰も変えてくれはしないのに。  そう思ったそのとき、携帯電話がぶるっと震えた。  俺は、唸るような低い声をあげながら、携帯を手に取って確認すると「体調大丈夫ですか」という母親からのメッセージ通知だった。 「何で……あんたは」  喉の奥がきゅっと締め付けられるように苦しくなる。  目の奥が熱くなる。  言葉が詰まって、息がし辛い。 「大、丈夫」  俺は、呟いたが中々メッセージを返せなかった。心の中で感情が複雑に絡み合う、その熱に耐えていることしかできなかった。  涙が、目元にじんわりと浮かび、たった一度の瞬きで流れ出す。  涙は、雨のように降り出して、枕を濡らす。  ぽつり、ぽつりと、布に黒いしみができてしまっても雨は構わず降り続ける。  大丈夫、母親の一言。  その一言が何度も胸の中で響き、その一言を何度も頭の中で反芻した。 すがるものなど何もないと、そう、思っていたはずなのに。  惨めだと切り捨てたもののはずなのに。  空っぽの心になってしまったはずなのに。  熱をもった涙が止まらなかった。誰かが傘でもさしてくれなければ、止まりそうもなかった。 「大丈夫だよ、ありがとう」  俺は、震える指で母に返事を送った。 「無理、しないでください」  母親のその言葉は、この止まない雨にむけられた傘のように頼もしく、優しいものだった。  その傘の中で俺は、もう一度頑張ろうと思えた。  携帯画面の向こうにいる母親の姿を思い浮かべながら、俺は再びパソコンの画面と向き合う。  それから一時間ほどして休憩がてら、ふと意識を部屋の窓の外に向けると、傘をさして歩く親子の姿が見えた。  ぱちぱちと、傘に触れた雨粒がはじける音がして、それはきっと、幼い頃に母がさしてくれた傘の中を歩いていた日の音だった。  俺はまだ、守られていたのだと密かに思った。  いつか、その傘を今度は俺がさしてあげよう。
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