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ビニール傘
――あ。
今日も「お隣さん」はシフトに入っているんだな……。
そんなことを思いながら、僕は明日食べるための食パンを買い物カゴに入れた。そして、棚の隙間からちらりとレジ作業をしているその人を盗み見る。
僕が「お隣さん」を認識したのは2ヶ月くらい前。アパートを出るタイミングが被って、偶然に顔を合わせたのだ。
――あ、この人、いつもコンビニに居る人だ。
僕はそう思い出したけど、お隣さんの彼は、特に僕を気にする様子も無く、頭を軽く下げてそのままドアに鍵をして出て行ってしまった。まぁ、いちいち全員のお客さんの顔を覚えているわけ無いか……たぶん、同じ大学生だし、人間の顔よりも覚えることはたくさんあるよね。その日は、特に気にすることも無く、僕は大学に向かうために彼と同じように家を出たのだった。
その日は、気にならなかった。
けど……。
――今日も居る。
――あ、まただ……。
――忙しいのかな?
彼を狙ってコンビニに行っているわけでは無いのだけれど、僕が行くタイミングと彼がバイトをしているタイミングが被る。気まずいな……なんて最初は思ったけど、彼は何も思っていないのか、あんまり愛想の無い表情で品物をレジに通している。
ピッ。
ピッ。
その音が、少し寂しいな。何故かそんな風に思ってしまう。
まるで、片思いの相手に自分を意識して欲しい……みたいな感情。変なの。こんなのまるで……恋……。
「あ……」
ぽつ、ぽつ。
コンビニのガラスを叩く音で僕の意識は引き戻される。
雨だ。
それも、小雨じゃない。
降り出した雨は、ざぁざぁと店の外の世界を濡らしている。
――傘、買わなきゃ……。
もったいない出費だけど、濡れて帰るよりは良いか。
僕は、ビニール傘のコーナーに向かい、並んだ傘を手に取ろうとした、だが。
「それ、買わなくて良いですよ」
ぎゅっと大きな手が僕の手首を掴んだ。僕は驚いて顔を上げる。そこには、さっきまでレジのところに居たお隣さんが……!
「あ、あの。どういう意味ですか?」
「そのままの意味」
お隣さんは、相変わらずのクールな表情で続ける。
「俺、あと五分でバイト終わるから」
「え……?」
「長い傘、持って来てるんで」
「傘……」
「俺の傘に入って帰れば良い……帰る先、一緒ですよね?」
そこでお隣さんは、初めてふっと笑った。
その顔に僕はどきりとする。こんな柔らかい表情、出来る人なんだ……。
というか、僕のこと、ちゃんと覚えてくれていたんだね、あはは……。
「じゃあ、その……お願いします」
「ん。あとちょっと待ってて下さい」
そう言って、お隣さんは次のシフトの人に引き継ぎでもするのだろう……またレジのところに戻って行った。
「……っ」
僕はどきどきと鳴る胸を落ち着かせようと、スイーツコーナーに向かう。彼、甘い物好きかな? これはあくまでも「お礼」だから。傘に入れてもらうお礼だから。
そう自分に言い聞かせて、プリンをふたつカゴに入れる。べ、別に一緒に食べれたら良いな、とか考えて無いから!
僕は会計を済ませるためにレジに向かった。
もうそこにはお隣さんは居ない。もう五分経ったのだろう。今頃、制服から私服に着替えているんだ。それから出てくる、傘を持って。
――帰り道、何を話そうかな。
ざぁ、ざぁ、ざぁ。
激しくなる雨音。
同じように高鳴る鼓動。
一緒に帰るだけなのに、こんなに緊張してしまう。
ちょっとくらい無言になってしまっても、雨の音がきっとごまかしてくれるだろう。そんな期待をしながら、僕は彼が出てくるのをカチカチになりながら待った。視界の隅には、買われることのなかったビニール傘。僕はさっきのお隣さんの手のぬくもりを思い出してしまって、まだ外に出てもいないのに、額を熱い汗で濡らしてしまったのだった。
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