140人が本棚に入れています
本棚に追加
ただ彼がゲイだと周知されることに抵抗がないのであれば、件の秘密の恋人を誑かすのもいいかなと考える。自分にどれだけの魅力があるかは知らない。いくら身持ちの緩い相手でも身体の関係に持ち込めるかどうかなんてわからない。
けれど実際に叶うかどうかは問題ではなかった。この先輩ならやりかねないと、田原が信じた段階でこの賭けは始の勝ちなのだ。
ゆらりと立ち上る湯気の向こうで眼鏡を外した田原が長い指の先で目頭を押さえる。
「……どうかしてる」
正当な評価を笑みの消えた白い貌で受け止める。狂っていると思ってくれて構わない。だから二度と引っ掻き回そうなどと考えないで欲しい。
そのためなら、後味の悪い告白も恫喝の真似事も始は厭わない。
理性で納得できれば感情は後からついてくる。すぐ下の弟は顔を顰めてまた苦い息をつくに違いない。光は、どうだろう。さすがに怒るだろうか。知られるわけにはいかないなと体を元の位置に引き戻す。
しかしこの頃、そんな自分の性分も前ほど持て余すことはなくなった。始が持てないものは一番下の弟が持ってくれる。碌なものではないと諦めた始自身を、彼は大事なもののように扱ってくれる。まるで彼に愛されているような錯覚が始を真っ直ぐに立たせてくれていた。
黙ってしまった田原を置いて支払いを済ます。外に出ると青が淡く滲む空はよく晴れていた。
明日、インターネットで取り寄せた野菜の苗は届くだろうか。弟が使ってみたいと言っていた珍しい冬野菜の苗。週末は天気が良さそうだから畑に定植してみよう。
上手く収穫できれば、弟はまた兄のために腕を振るってくれるに違いない。
楽しみだなと思う。憂いもなく、先のことを想像してわくわくとする。
そう、これがきっと。
幸せだな、と始は唇を綻ばせた。
〈おわり〉2022.9.13
最初のコメントを投稿しよう!