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ため息を一つ吐くと椅子の背もたれにもたれ掛かった。離れた距離でもう一度田原を眺める。
「怒らないで下さい」
「怒ってないよ」
「じゃあなんでそんな怖い顔なんです」
「呆れてるんだ」
「俺にですか」
そこで店員が蕎麦湯を運んで来たので会話は一旦途切れた。田原には注文した蕎麦が届く。
蕎麦猪口に白濁した湯を注ぎながら一つ、大きな瞬きをする。もういいかな。律儀にテーブルの下で箸を割る後輩にそう思う。
職場の人間だと装ってきたけれど、それももう面倒だった。善き人の顔をするのもいい加減に疲れる。
「なにか勘違いしてるけど、あれは弟だよ」
「え」
「消防署の裏の通りの洋食屋で働いてる。嘘だと思うな行ってみな」
突然の告白に田原は暫く疑う顔つきをした。けれど始が平然としているのでやがては不承不承納得したようだった。そうなんですね、と呟きながら首を傾げる。その隙に始はにこりと微笑んだ。
「田原君はああいうのがタイプ?」
少し大きな始の声に、田原の瞳が眼鏡越しに揺れる。狼狽える表情で、沓川さんと始を呼んだ。隣の席に聞こえたとして意味がわかるものではない。しかし、ここで応酬してくるとは思っていなかった男が可愛らしくて唇に笑みを刷く。
打って出るなら奇襲に限る。優勢を取りたいなら間を置いてはいけない。天板に置いた右手の人差し指でテーブルをなぞりながら微かに身を乗り出す。
「でも、駄目だな。あいつは駄目」
ワイシャツの肘で体を支えて少し下から目を合わせる。驚いた田原の視線が薄茶色の虹彩を逸れ、口元を辿って首、そして衿の合わせへと落ちる。そこで平生飄々とした男の顔色が少し変わった。
昨日弟がつけた鬱血の痕はまだ微かに残っている。普段はわからない。けれど田原を覗き込むように上体を潜めているので、浮いた衿の隙間から中を見れば確かにある。
「あれは俺のだから。誰にもあげられない」
囁けば、田原が呆然と始を見返す。たぶん正気を疑っている。それで良い。
田原は暫く箸を持ったまま始を見つめていた。眼鏡の奥で瞳が一度、大きく瞬きをする。
「どうして、この話を俺に」
尋ねる声は少しくぐもっていた。
「君には知っておいて欲しかった。俺は誰と寝るのも平気なんだよ。たとえそれが、後輩の彼氏だって」
昨夜の献立を答えるような軽やかさで口にすれば、目の前の男は顔を顰め唇を噛んだ。
この話を口外されないだけの勝算はあった。万が一誰かに喋ったとして対処できる自信もあった。
そもそもあまり突飛過ぎる噂を流す人間は組織の中で不安視される。ましてや上辺を生真面目な好青年で通す始の風聞にしては実弟との関係はやや過激すぎる。それにその陰口は彼にとって諸刃の剣でもあった。
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