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あまりの暑さに耐えきれなくなった私は近くの公園へと避難した。
それでも屋外とあってはこの暑さは変わらない。
公園のベンチに腰を下ろし、一息つく私。遊具で子供達が元気に遊び回っていた。それを素直に凄いなという思いで見つめる私。
この暑さで駆け回り遊ぶことのできる子供という存在が、私なんかよりもよっぽど生命力に溢れている気がして。
ポケットからスマホを取り出す。熱々状態の縦長状の通信デバイス。私の太もも部分で温められ、こんなにも熱々の状態になっている。
画面を操作しロックを解除する。現在の時刻午後三時。
メールフォルダを開き、会社からのメールをチェックしていく。定時連絡のみが連なるメールフォルダ。私は一体この場で何をしているのだろう。
ふとそう思ってしまった私。
こんな糞暑い中、スーツ姿で外を歩き周り、お得意先に頭をペコペコ下げる毎日。
自身が子供の頃。こんな未来を想像していただろうか。
もっと大きな夢があったはず。その夢も徐々に頭の隅みに追いやられ消え去り、夢は夢のままで、現実を今こうして私は必死こきながら生き抜いている。
ここで疑問に思う。人は何故生きるのか。それは死が怖いから。自分というモノの消滅を恐れるから。
今という今を生きる自分が消滅して居なくなる。いずれはそうなる運命。人には寿命というものが存在し、永遠の命など到底あり得ないことなのだ。
視覚。聴覚。触覚。味覚。聴覚。嗅覚。人間に備わった五感。人は消滅するとこの五感が一斉に無くなる。何も見ることは出来なくなり、音を聞くことも、匂いを嗅ぐことも、触ってそのものを確かめることも、物の味さえも分からなくなる。
つまりは死が怖いのではなく、この五感を失うことが怖いだけなのだ。
痛みなどなくあの世へと逝きたい。そう願う人はこの国には五万といる。この先の未来に展望が持てず、絶望の淵に立たされて、明日への懇願を要求しない頭の賢い人達。
暑さを感じることも人に備わった五感の一つ。暑ければ汗が出て体内の水分が放出される。これも生きている証であり証拠なのだ。
死人は汗をかくことはない。体温調整の為に備わる汗をかくという行為。死人に体温調節など無意味なのだ。モノとして物体として存在し生きていないのだから。
「あっつ……」
うな垂れた格好でそう不意に呟いた私。
酷暑すぎて言葉が出てこない。酷い暑いと書いて酷暑と読む。これはまさにそのものだった。酷い。さすがに酷い。酷い暑さだ。
ヒトという生き物は溶けるのだろうか。真夏のコンクリートの上にアイスを置いておけば、それはもうドロドロに溶けるに決まっている。ならばヒトはどうなのだろうか。
身体を構成する七割を水分で構成されている私達人間。コンビニで売られているアイスとさほど成分的には変わらないのではないだろうか。であるならば、ヒトは溶けてもいい生き物なのではないだろうか。
薄い皮膚で覆われ筋肉組織にも覆われたヒトの身体。それがあるからヒトは溶け出さずに済んでいるのでは。もし仮に、皮膚も筋肉組織も有さない水分と骨だけで構成された身体ならば、こんな暑い酷暑の日には身体は溶け出すのかもしれない。
逆にこうも考えてみたい。水分を有さない肉体。七割近い肉体主成分を持たない存在として熱せられたアスファルト地面に寝転がってみると、背骨部分と頭骨後ろ部分、骨盤後ろ部分と大腿骨とが地面に接し、高温を帯びた熱さられた骨と化すのだ。
ヒトは一生に一度このような経験を一度は体験する。火葬である。
あれはヒトを焼く為に存在する装置と施設。皮膚が焼けただれ、筋肉組織も火で炙られる、最終的には骨だけとなり骨壺に遺族が箸で入れていく作業を行う。
ここで考え方を180度変えてみることにしようかと思う。この我々の住む地球全体が一つの火葬場と見立ててみると面白いことが分かる。
日常の営みを日々行いながらヒト達は死に向かって自ら歩みを進めているのだ。
火葬装置の熱源発生箇所はこの場合灼熱の太陽となる。ジリジリと熱い日差しを地球上の全てのヒトに平等に与える。火葬場という名の地球において、皆が等しく棺桶を与えられている。ヒトは寿命が尽きる生き物だ。やがては死に、その役割を全うすることになる。
上記のことからヒトは日常生活で溶け出さないにしても、火葬場という地球に身を寄せる運命共同体なのでは。と私は考える。
公園ベンチに座りながらあれやこれやと考え込んでしまった私。
汗はなおも身体から吹き出し続ける。止むことはない。
気でも狂ったかのように水を浴びたい気分だった。頭上からの冷水シャワーで顔面を濡らし、口には冷たい水しぶきが入ってくる。頭皮が徐々に冷却され、その水は真下方向身体へと流れ落ちる。
身体から滲み出た汗は洗い流され、極上の爽快感が強烈に襲ってくる。衣服など身に纏う必要など本来ないのだ、ヒトは原始に戻る必要がある。太古の昔の生活のように、裸同然で過ごせばいい。そう思ってしまう私は頭のイカれたヤバい奴に映るのだろうか。
皆が皆、無理をして衣服を身に纏っている。皆んなで渡れば怖くない精神で、皆が全裸で日々を過ごせばいい。やはりそう思ってしまう私は頭のイカれたヤバい奴に映るのだろうか。
私はネクタイをほどきワイシャツのボタンを全開にした。白い肌着が汗でびしょ濡れ状態。スーツスラックスも脱ぎたいところではあったが、ここは公共の場である為それはやめておくことにした。
涼しい風など皆無なこの公園内。熱波が否応なく押し寄せてくる。照りつける太陽、貴方は神か。神様気取りの頭のおかしい野郎か。
自身身体から絶えず吹き出る汗状の汗。やはりこの地球という星は何かがおかしい。果たして異常気象という言葉で片付けられる問題なのだろうか。熱源である太陽がそもそもの原因なのだ。あの太陽さえ無くなれば、地球は暗闇に覆われ灼熱地獄から解放される。それは逆に氷河期の到来でもある。凍える寒さに全ての街や物が凍りつく。ちょうどいい塩梅の適温をこの星は我々に提供してはくれない。
「あっつい……」
俯きながらそう呟いた私。
あと数時間後には夜が訪れる。熱帯夜特有の寝苦しい夜。
しかし私は自宅に帰りさえすればクーラーという今世紀最大の発明品を使用することができる。寝苦しい夜とは無縁な私。夏場の電気代は馬鹿にはならないが、快適空間を得る為には致し方ない事。
クーラーの存在しない世の中を想像してみると、それはもう地獄の様相を呈している。皆が灼熱地獄の中で苦しみ、扇風機で暑さを耐え凌ぐ、室内ではパンツ一丁になり汗は吹き出し続ける。
誰かがクーラーというモノを発明したのだろうとは思うが、よくもまあこのようなモノを発明できたものだ。その誰かがクーラーを発明しなければ代わりの誰かがクーラーに代わる何かを発明していたのだろうか。よくよく考えてみると、人は困難に遭遇するとそれを打ち破ろうとする、その果てに発明品というモノが存在することになる。困りさえしなければ誰かが発明することもなく、その発明品は世に出現しないということになる。
クーラーの登場は昭和後期からなのだろうか。それより前に存在していたのだろうか。ならばもっと昔、江戸の頃に人々はどのように暑さを凌いでいたのだろうか。今よりも平均気温は低かったのだろうか。扇風機すら存在しない江戸時代。うちわで扇ぐなど気休め程度にしかならない。となると、江戸の頃にクーラーを発明する人は存在しなかったことになる。暑さには困っていたはず。しかしそれを打ち破る妙案が出てこなかったというわけだ。
私達はクーラというモノを日々当たり前のように使用している。
発明者に私達は足を向けて寝ることはできない。
当たり前が当たり前でなくなった時、人は異常な喪失感に苛まれる。この異常な暑さは地球からの警告であり、何らかのSOSでもある。
クーラーですら凌ぐことのできない酷暑が近い将来地球に訪れるのかもしれない。
その事態を打開する救済者は果たして現れるのだろうか。
近い将来鉄板で焼かれる運命の我々人類。導き手はもうこの世に生まれ落ちているのかもしれない。
私は公園のベンチで大量の汗を流す。大量の汗を。
正直に言おう。この世は地獄だ。地獄であると言える。
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