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マンション住人 福田美恵
午前六時半、ゴミ出しに出たロビーで、福田美恵は警視庁と書かれたベストを着た捜査員が、ゾロゾロとエレベーターに乗り込むのとすれ違った。いつもより早く出勤していたコンシェルジュに確認しても、はっきりとは教えてくれず、その日の夕方、テレビのニュース番組で事件を知ることになった。
「次の日、集会で説明があったんだけど、納得できないって人もいたわね」
集会は紛糾したという。事件が起こったことで、不動産価値が下がるのではと、懸念した住人が少なからずいた。管理会社と不動産業者を相手取って、訴訟を起こそうという動きもあるようだ。
「もう起こっちゃた事はどうしようもないし、どこかに責任を押し付けるのはちょっと違うと思うのよね」
福田自身は、訴訟には消極的だと言う。
「騒げば騒ぐほど公になっちゃうじゃない?」
マンション周辺での聞き込みが難航したのはまさにそれが理由だった。誰も話したがらないのだ。福田が声を掛けてくれなければ、話を聞く事は出来なかったかも知れない。
「いいのよ。そんなことより、被害者の写真、見せてくれるのよね?」
被害者の写真を見せてくれるなら、という条件で二駅先のコーヒーショップで待ち合わせの約束をしたのは昨日の事だ。手帳に挟んだ履歴書の写真を見せてやると、福田はそうそう!と両手を打つ。
「この子よ。でも、あれね、写真うつりが良くないわね」
福田は履歴書の小さな写真を、舐め回すように眺めたあと、うっとりとため息をついた。
「事件の二週ほど前にね、私、見たのよ」
福田が健康のためにウォーキングを始めたのは半年ほど前からだ。人目を避けるため、十一時に家を出る。その日は偶然、夫の帰りが遅くなったため、一時間予定がずれ込んだ。一階のロビーに着いたのは十二時すこし回った頃だったと言う。
「下着一枚に首輪を付けた裸の男の人がね、四つん這いで歩いてるの」
街灯の灯りの下、四つん這いで歩く裸の男。ファミリー層の多いタワーマンションの平穏をかき消す異様な光景だ。にも関わらずスマートフォンを持っていた筈の福田は通報していない。
「その子がね、一緒にいたのよね」
首輪に繋がったリードを手にした持田はじめは、男の尻を蹴り上げなから愉しげに笑っていたという。
「変よ。確かに変なんだけど……誰にも言わないでね?凄く綺麗だったの。彼」
綺麗だったと言うのは、持田の容姿の話だろうか。福田は首輪の男の顔は覚えて居なかったが、持田はじめについては、顔だけに留まらず、その服装や雰囲気まで具に記憶している。
「通報しちゃったら、もう見れないじゃない?」
その日以来、福田はウォーキングの予定時間を一時間ずらす様になった。だが、その後、持田はじめを見かけることはなかった。
「本当に残念だわ」
福田は二度目の溜息を吐いた。
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