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「それなら、おれはパパと暮らすよ」
若干9歳の息子からの返球としてはあまりに予想外だった。
「ユズキの帰りが遅いと、パパと受け渡ししなきゃいけないから困るんだよね」
という私の苦言に、ユズキはしれっとこう宣ったのだ。
夫は浮気をした。
下手すると、ユズキに腹違いの兄弟ができるところだった。
そんな夫にユズキを渡す気はない。
ユズキまでいない世界で、私は到底生きてゆけない。
なのに、ユズキは放課後になると決まって夫の元に行き、くつろいでいる。
初めは近くの公園に行くだけだった。
家族3人で住む一軒家の周りにはたくさん幼馴染がいるから、ユズキは前の遊び場がすぐに恋ししがった。
嬉しさのあまりに大声で遊んでいて、夫に見つかったのだと思う。
夫のほうも、久々に会うユズキはさぞ愛おしかったことだろう。
その日、ユズキは両手に抱えきれないほどのお菓子を持って帰ってきた。
遊びに行くなとは言えない。
夫にも会ってほしくないが、会うなとも言えない。
どう説明すればいいのか、自分でも持て余しているうちに、門限の約束がどんどんルーズになっていった。
怒るとさらに門限破りは続く。
怒られてユズキが怖いと思うのは、私との約束を破ってチャイムをピンポンする瞬間だけ。
出かける時には消え去っている。
ある日、真っ暗になっても帰宅しないので心配になって夫の家まで迎えに行った。
歩いていくと、ちょうど門の外で自転車に乗ったユズキが夫と話していた。
暗いし遠目だったので、二人の表情までは見えない。
夫も自分の自転車をガレージから引っ張り出している。
自転車で送っていくつもりなのだろう。
「ユズキ」
私の声に二人が反応した。
私が手を振ると、ユズキはこっちに向かって自転車を漕ぎ始めた。
夫はその場から動かなかった。
ユズキは私の元まで来ると後ろを振り返って、夫に大きく手を振った。
夫も何度も手を振っていた。
どうせ明日もいくんでしょうが。
そう悪態づきたくなるほど大袈裟な別れだった。
帰りながらユズキは、ことあるごとに後ろを振り返った。
信号が青になると、じっと夫の家の方を見ていた。
パパが追ってくるのを待っているのだ。
ユズキは夫が浮気したことを知らない。
ユズキの中にいるパパは、一緒に暮らしていた頃のパパのままなのだ。
それが、さらに優しくなって会いにくるのだから、嫌いなはずがない。
確かにユズキには申し訳ない。
でも、私は夫にどうしても会いたくないのだ。
考えているうちに信号は青になった。
いつもなら私を置いて行ってしまうのに、自転車の車輪はいつまで経っても動こうとしなかった。
「ほら、後ろむきで自転車に乗ると危ないから、行くよ」
どれだけ促してもユズキは両足で地面を踏ん張ったままだ。
「ユズ…」
ここでようやく、ユズキが動かない理由に気づいた。
どうしてこれほど近づくまで気づかなかったのだろう。
一旦手を伸ばせば届いてしまいそうな距離になった途端、気配に胸を掴まれた。
向こうから走ってくる車のライトが夫の輪郭を照らした。
私は夫に別れたいと言った。
だから、今ここで何も言わずに立ち去らなくてはいけない。
私は、夫を嫌いにならなくてはいけないのだ。
「ごめん」
夫の声がひどく懐かしかった。
ひどいことをされたのに、まだ嫌いになれない。
ユズキを理由にして、もう一度夫にどっぷりと浸かりたい自分がいる。
夫とユズキは、そんな弱い私を見抜いているのかもしれない。
ユズキは、私の顔を覗き込むと、無邪気に笑った。
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