大熊

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大熊

その少女は、比葉 真理といった その日は先日迄の暑さが嘘のように、 朝から肌寒く午後からは小雨が降り出していた。 夏も終わりだな… 今日は天気も悪いし小学生達は来ないかも知れない。 と大熊は思いながら、いつものように仏壇に手を合わせた後、道場の掃除をしていた。 そんな時、比葉真理は初めてこの道場を訪れた。 彼女は小柄で真面目な優等生のように見えた。 ただ、思い詰めたような表情が大熊には印象的だった。 「いらっしゃい 何の御用かな?」 大熊はいつもの微笑みを浮かべ、少女に尋ねた。 道場には、入れ替わり立ち替わりで近所の子供達が遊びに来るが、彼女は今まで見た事がなかった。 「合気道を習いたくて…」 彼女はふり絞るように答えたが、大熊と目を合わせようとはしなかった。 そして寒さのためか小さく震えていた… 「入門希望か… 今日は寒いね ここじゃ何だから中に入りなさい。 熱いお茶でも飲みながら話をしよう。」 比葉真理は一瞬躊躇する表情をしたが、何も言わずに小さく頷くと靴を脱ぎ道場に上がった。 開け放たれた障子の向こうには縁側と庭が見える。 道場の端、庭が見える位置に座布団を敷くと大熊は比葉を案内する。 「お茶を持ってくるから、ちょっと待っていなさい。」 大熊が声をかけると、真理は「はい」と小さく返事をした。 お茶を入れ、道場に戻ると彼女は庭を見ていた。 しかし彼女の瞳は虚ろで、そこには何も映し出されていなかった。 彼女の心は、遠くの何処かを彷徨っているようだった。 「どうぞ…」 とお茶を出すと、ふっと意識を取り戻したかのように、彼女の目の焦点が戻った気がした。 大熊はそっと彼女の横に座った。 庭を正面にして腰を下ろすと比葉に尋ねた。 「君は中学生かい? 名前をまだ聞いていなかったね…」 「比葉真理といいます… 深海中学の三年生です。」 彼女はこの町の最寄り駅から4駅ほど離れた場所にある中学校の名前を出した。 「申し訳ないがウチでお金をとって教えているのは高校生からなんだ… ただ、小中学生には6時迄だが道場を無料で解放しているから、よかったら来なさい。  基本の手解きくらいなら教えてあげよう とは言っても、小学生の溜まり場になっていて中学生には居心地が悪いかもしれないが、それでも良ければ…」 比葉はお茶にも手をつけずに、相変わらず庭の方を向いたままで大熊の話を聞いていた。 その比葉の顔色は青ざめ、座布団に正座した膝の上で固く結ばれた指は震える手を必死に押さえつけていた。 具合でも悪いのかい? と聞こうとした大熊は、ハッとして言葉を飲み込んだ。 この娘は怯えているのかも知れないと直感的に感じた。 すると彼女は、急に立ち上がると大熊の方を向き目を合わせた。 「強くなりたいです… そして誰からも虐げられない力が欲しい」 真理は大粒の涙をこぼしながら、怒っているようだった。 そして握り締められた拳は小刻みに震えている… それが怒りの為なのか、それとも怯えからくるものなのか大熊にはわからなかった。 ずっと心の奥底に溜まり続けた感情が爆発したかのような彼女の言動に、大熊は正直面食らったが、ソレはもう何年も世捨て人のような生活を送っていた彼の心に、小さな波紋を作った。 突然現れて初対面の自分に、むき出しの感情をぶつけてくる少女に、大熊はある種の興味と羨望を抱いていた。 もしかして自分がずっと抑圧してきた願望と同じ物をこの娘は望んでいるのではないか? そう感じた時、大熊は彼女の力になりたいと思った。 自分から何かをしたいと望んだのは久しぶりだった。 何度思い返しても、この日の決断に後悔は無かった。 それが彼女と私との初めての出会いだった。
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