翠雨〜翠の歌〜

3/5
0人が本棚に入れています
本棚に追加
/5ページ
〜慈雨〜 行きたくない 行きたくない 行きたくない 翠は呪文のように繰り返しながら ベッドから身を剥がした。 結局、バイトを休むと言えなくて来てしまった。 来てしまえば、そこはいつもの場所だった。 いつもの作業 いつもの店長 昨日のアレは 白昼夢のパラレルワールドだ。 驟空という名の潮が引き 日常という名の足元が見えてきたら 何もかもが夢のように思えた。 平常心を取り戻した翠は いつものように休憩時間に お弁当を食べながら曲をチェックしていた。 「あれ?今日はヘッドホンなんスか?」 翠の体がこわばった。 翠は全身全霊をかけて聞こえないふりをした。 人懐っこい驟空はそんな翠を一笑すると ヘッドホンを取り上げて自分の頭にセットした。 「あ!」 思わず声が出た翠が見上げると、美しい異次元の顔がそこにあった。 まただ・・白昼夢のパラレルワールド。 「いい曲だなぁ」 何気なく発した驟空の言葉に翠の胸がズキっと疼いた。 「あれ、、この曲知ってる」 驟空の声で翠はチラッとプレイリストのタイトルを確認した。 その曲は例の新人番組で取り上げられたことのある曲だった。 翠はそのことを言葉にする事ができず、時間が過ぎ去る速度で 心が締め上げられていくのを感じていた。 沈黙が重く垂れ込め、締め上がった心が暗雲で光を失った頃 「あっ!」と、驟空が晴れやかな声を発した。 「店で聞いたんだ!」 たちまち、曇天から晴天へと場面は転じ 驟空の笑顔が翠の心の中の灰色の雲を吹き飛ばしていた。 「好きだなぁって思ったから忘れてなかったんだ」 翠の心がぎゅっと再び締め上がった。 「なんて題名?」 驟空はスマホを操作しながら聞いてきた。 「にわか雨」 翠がぽつりと答えると、親指を素早く上下し 「あった!翡翠さん?」とスマホの情報を読みながらチラッと翠を見た。 「へ〜、なんかいいね」 そう言った驟空の顔は思ったより真面目な表情だった。 翠は激しく紅潮した頬を見られないように必死に髪で隠しながら 驟空から伝わる雰囲気で素直に誉められていると受け取る事ができた。 同時に認められる喜びを知ったのだった。 その日から、翠は休憩時間が待ち遠しかった。 自分の曲を披露しては驟空の反応に酔いしれていた。 特に驟空のお気に入りは「にわか雨」だった。 翠も2人の出会いの曲を特別に感じていた。 お互い同じ曲を好きであるくすぐったさは 言いようのない幸せを運んでくれた。 「翠って譜面かけるの?」 何気なく言った驟空の言葉だったが、綺麗に仕上げた譜面を見せて すごいねって思ってもらいたかった翠は「見せようか?」と言ってみた。 そっと見た驟空の反応は思ったよりうれしそうで心があったかくなった。 次の日、翠は譜面を見せた。 驚きと関心を見せて夢中で読み込んでいる驟空を見て 誇らしい気持ちで満たされていった翠は 「貸してあげようか」と声をかけた。 「え?いいの?」 ふと、翠と目があった。 翠がこくりと頷くと 「ありがとう」と 翠の譜面をまとめて微笑んだ驟空にたまらなく親近感を感じた翠は 嬉しそうな驟空を見ながら お礼と称して食事の約束をした2人の妄想を繰り広げていた。 勇気を出して誘ってみようと、翠は軽く息を吸い込んだ。 瞬間、店長が驟空を呼びにきた。 翠は吸い込んだ息をそのまま吐くと声にならない声を発して驟空を見ると 驟空は手早く翠の譜面を鞄にしまって行ってしまった。
/5ページ

最初のコメントを投稿しよう!