喫茶ベル

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 喧騒ざわめく駅を背に進むこと数分。横断歩道を渡ってすぐ右手に進路を変えると、細い路地が顔を出す。昼間だと言うのに、どこか薄暗さを背負った路地だ。だらしなく垂れ下がった電線に、皺だらけの洗濯物。まるで全てを拒むかのように締め切られたカーテン。ここは、時が経つのを忘れてしまった場所だ。  そんな路地の片隅にひっそりと佇む一軒の店、喫茶ベル。今回の話の舞台である。  カランコロンカラン。 久しく聞くことのなくなったドアベルに出迎えられ、私は店内へと入った。座席は全部で5席、全てカウンター席だ。手前から2番目の、私の定位置となった席にするりと腰かけると、微かに煙の匂いが鼻を掠めた。おや?そう首を傾げた時、カウンター内からマスターの落ち着いた声が届いた。 「いらっしゃい。しばらくぶりだね。」  そう、私はしばらくの間俗世を離れていた。定期的に訪れる、何もかもが嫌になる病のせい―。今回は比較的早く解放された方だ。私は苦笑いを1つ返し、「いつもの。」とポツリと答えた。マスターはそれ以上追及することなく、ほんのりと笑みを浮かべるとミルを手に取った。  と、その時。ふと、見慣れない女性が座っていることに気が付いた。へぇ、と少々驚きの声が漏れる。  ここベルは、マスター1人で切り盛りする極々小さな店だ。座席も5席しかない。そのため、客と言えばほぼ常連ばかり。どうやら私が俗世を離れている間に、新たな顔ぶれが追加されたらしい。私は失礼に当たらない程度に視線を向けた。  年の頃は40代ぐらいか。緩く束ねられた髪にはチラホラと白いモノが見え隠れし、若草色のワンピースがそのふくよかな身体を包んでいる。そこまで見れば清楚な、ごく普通の女性という印象だが、彼女の指先にはどぎつい程の赤が塗られていた。 「何か?」  不意に声を掛けられ、不躾な視線を向けていたことに気が付いた。「ああ、すみません。」そう愛想笑いを浮かべつつ頭を掻くと、彼女は逆にたじろぐ程の視線を向けてきた。そしてポツリと、まるでため息を吐くように「雨はお好き?」そう、尋ねた。  雨…?私はしばし目を瞬くと、女性の顔を伺った。彼女はどこか愁いを含んだ瞳でじっと私の回答を待っている。 「あー…はは、考えたこともないな。そうですね、強いて言うなら嫌いではない、かな。」  我ながらなんて回りくどい言い方だろう。思わず苦笑が浮かんだ。しかし、彼女は特段気にした様子もなく「私は苦手なんです。」と言った。  度々思うことなのだが、日本語とはつくづく難しい言語だ。今の会話を例に取ると、彼女が提示したのは好きか嫌いかの2択。しかし私の回答は“嫌いではない”という、言わばグレーゾーン。対する彼女の回答は“苦手”と言う、好きとも嫌いとも取れる答えだ。だってそうだろう、好きだけど苦手とも取れるし、嫌いだから苦手とも取れる。つまり、その真意を得るためには会話を続ける必要があるというわけだ。  「…苦手、ですか。それはまたどうして?」 私は仕方なく続きを促した。―これは偏見だが、女性の多くはどうもこうした会話の仕方を好む傾向にある―。言わば、私の回答は全て枕詞みたいなものだ。結局のところ、私が雨に対してどう思うと関係なく、ただ彼女が話をするきっかけに過ぎないのだ。  女性は、無言でカップを手に取るとこっくりと嚥下した。 「あたし、普段事務の仕事をしているんです。これと言った変化のない、流れ作業のような毎日を送っていると…時々、無性に逃げ出したくなる。でも何もかも投げ捨てて、逃げ出す勇気もない。それがなんだか…雨の中、傘から覗く世界に似ていて。だから雨は苦手なんです。」  分かったような分からないような。なんとも微妙な気持ちになった。その時、スッとコーヒーが差し出された。  温かな湯気と共に立ち昇るかぐわしい香り。口に運ぶと、途端に押し寄せる軽やかな酸味と鼻に抜ける苦味。両者の絶妙なバランスが引き出す甘味。この時ほど、生きていて良かったと思う時はない。ほぉと感嘆の吐息をついた時、視線を感じた。彼女だ―。  私は小さく咳ばらいをし、この場合なんと答えるのが正解か考えた。代り映えのしない日常、意気地のない自分。ふと視界に入ったどぎつい程の赤。…きっと、己を変えようと動き出した証だ。  私は努めて柔らかく微笑むと、彼女の瞳をじっと見つめた。 「雨は、恵みの雨と言うだろ?君は今、恵みを前に手をこまねいているだけだ。でもね、雨粒が傘に当たる雨音を聞けるのは、傘の中だけだよ。」 私は一体何を言っている…!途端に頬は熱を持ち始め、私は一気にカップを傾けた。 「つまり…えーっと何が言いたいかというと。もう少し雨音の変化を楽しんでから、恵みを浴びても遅くないと思うんだ。」  男は早口にそれだけ言うと、挨拶もそこそこにまるで逃げるように席を立った―。  「ねぇさん!いい加減にしてくれよ!」 男は磨いていたカップを棚に戻すと、カウンターを挟んだ向かいに座る女を怒鳴りつけた。 「何が?あ、タバコいい?」 女は返事を待つことなく煙草を咥えると、若草色の胸元を豪快に開け放った。 「何がって…!あーもう!ここは禁煙だって言ってるだろう!じゃなくて、うちのお客様に絡むなってあれほど…!」  男は顔を真っ赤にして怒鳴るも、女はどこ吹く風。ふてぶてしくも鼻から煙を吐き出すと、頬杖をついてニヤリと笑った。 「さっきの、アレは中々上玉じゃない。だけど、ちょーっと惜しかったねぇ。アレで、僕も一緒に雨音を聞きますから。なーんて言われた日にゃあ、あんた!ねぇーちゃん本気出しちゃうよ。」 そう、女は大口を開けてギャハハハと笑うと、空になったカップを突き出した。 「おかわり!」  
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