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「私が能力に目覚めたのは、今みたいな衣替え前の五月で、真夏みたいに暑い日だった」
少し高めの乾いた声で、千比呂が語り始めたとき、夕焼け色の理科室が、眩い青色に照り輝いた。壁も、床も、天井も、境界線がみるみる薄くなっていき、澄んだ蒼穹が宇宙のように拡がった。間違い探しの絵本から巨大なスクリーンに移された祐希は、足元が灼熱のアスファルトに変わったことに驚いて、顔を上げてさらに驚いた。
千比呂の手には、大きな菊の花束があったのだ。
「その日は、私の大切な人の命日だった。毎年お墓参りに行くんだよ」
「……その人は、どうして死んだの?」
理科室の変質よりも、不吉な菊の花束よりも、蝋より白い幼馴染の顔色よりも、それを訊くのが正しい気がした。線香に火を灯すように、千比呂の無表情に仄かな笑みが、ぽうっと咲いた。正解を選んだはずなのに、もの悲しさが胸を打った。
「暴力で死んだ。小学生のときに。その人の母親は、その人を上手く愛せなかった」
「……そっか」
祐希は、ぎこちなく頷いた。本来であれば、この理科室のてっぺんで輝く太陽に引けを取らないほど明るい千比呂に、死を悼む存在がいたなんて、初耳だ。心の表面がざらついたが、知らないはずの千比呂の貌に、どこかで納得している自分もいた。
「その人のいない世界で高校一年生になった私は、この日、能力に目覚めたの。鉄棒の逆上がりを、あるとき突然できるようになるみたいに。『大切な人』を時間遡行で救う自分をイメージして、その人が生き延びられた世界を強く願い続けた私は、世界を歪めることを代償に、世界を創りかえる能力に目覚めたんだ」
「世界を、歪める?」
「そう。歪めてしまう」
千比呂は、ふっと何かを諦めたような顔で笑うと、菊の花束を宙に放った。千比呂の髪に負けない鮮やかさの黄色が、幻の太陽に吸い込まれて、打ち上げ花火のように散っていく。虹色の流星が止んだとき、理科室に拡がった初夏の景色は、祐希たちの一年一組の教室に変わっていた。
朝のHR前なのか、クラスメイトたちは緩い喧噪の中で歓談している。遅刻魔のはずの旭もいた。一人の女子生徒と小鳥のように肩を寄せ合い、親密に会話を交わしている。出し抜けに見せられた日常の風景に当惑した祐希は、やがて息を呑んだ。
そのとき、間違い探しの絵本のページを捲るように、教室じゅうのカーテンがひとりでに動いてぴたっと閉じて、風景に闇色の幕が下りた。泡を食った祐希の耳朶を、千比呂の淡々とした声が打つ。
「今のが〝一番目のセカイ〟だよ。でも、ここは私の願いが叶っていない世界だった」
「……君の願いは、何?」
「大切なあの人の『母親』を、世界から消し去ること」
――空間に蔓延る闇に罅が入り、ガラスが砕けるような音がした。無数に散らばる闇の破片は、理科室の宇宙から剥落して、暗黒の雹となって降ってくる。冷酷な声を受けて絶句した祐希へ、千比呂は静かに語り続けた。
「世界を創りかえる能力で〝一番目のセカイ〟を構築した私は、あの女を『あの人の母親』というポストから追い出すことに成功した。〝一番目のセカイ〟で、二人は『他人同士』になったの」
「二人の親子関係を、変えた? そんなこと、できるわけが」
「できるんだよ。祐希」
「君は……間違ってる。そんな世界、歪だ!」
「歪でも構わない。私の立場から見たら、『あの人』がいなくても続いていく世界のほうが間違ってる。その間違いを正すためなら、世界の理だって変えてみせる」
気圧された祐希は、黙った。闇が剥がれた空間を橙の光が包み込み、頬の輪郭に輝きを纏う千比呂の表情の決死さは、小学生時代に気分が悪くなった祐希を保健室まで支えてくれた時とよく似ていた。あんまり必死な顔をされたから、昔を思い出すのだろうか。
「だけど、私は甘かったの。二人を『他人同士』にしても、『あの母親』は私たちのそばにいた。その気になれば、いつでも『あの人』に危害を加えられるくらいに。もちろん『母親』だった記憶は失っていたけど、安心できなかった私は、この教室の真ん中で能力を使った。今度こそ『彼女』が存在しない世界を創るために、平和な〝一番目のセカイ〟を、あっさり捨てた。……今なら、軽率な行動だったって、分かるのに」
理科室を満たす光が、急速に強くなる。その刹那、足元に落ちた闇色の破片の一つ――〝一番目のセカイ〟の切れ端から、猛烈な視線を祐希は感じた。
ぞっとして振り返った瞬間に、清冽な川の匂いが鼻腔に流れて、血のように赤い紅葉が、はらはらと理科室に舞い始めた。身体が、この空気を覚えていた。祐希は、弾かれたように辺りを見回した。
先ほどの〝一番目のセカイ〟のように、新しい情景が目の前に映し出されていた。川沿いの通学路を、数人の高校生たちが歩いている。祐希と旭、それに千比呂も、冗談を言い合って笑っていた。他人事みたいな記憶のパズルに、ピースがまた一つぴたりと嵌まる。みんなでどこに向かっているのか、なぜかすんなりと想像できた。
――担任教師であるアイラの結婚祝いを、みんなで買いに行ったのだ。
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