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プロローグ 世田谷の杜
三日降り続いた雨が止んだあとの透明感が、その杜のいたるところに宿っていた。雨の名残りを愉しむ余裕がもたらしたものではない。もともと都会の喧騒の狭間にあったその一帯が、中天にあった陽をぞんぶんに浴びることで、徐々に空気の冴えが甦えりつつあったにすぎない。
「……で、このアルファ・ビルヂングの住民のなかにあの犯人がいるのは間違いないのだな」
「はい、おそらく……。周辺の聴き取りでは、近所の誰もが、ここの『入居者は……一癖も二癖もある奇妙な人たちの集まり』だと噂しておりました」
「そんなこと、いまさら、言われなくても、やつが潜んでいるぐらいなのだから」
二人の男が、ちょうど、エントランスの反対側、方角的には真北にあたる路地で立ち話をしている。ことさら身を隠す気配もなく、堂々と大っぴらに喋っているのは、どうやら一部のマスコミがエントラス前で報道体制を敷こうとしているからだった。
「あれは……一体、なんの騒ぎだ?」
と、中年の男が訊いた。
刺繍のない野球帽をかぶっている。左手にやや大きめの蝙蝠傘をたたみ杖代わりに体重をのせていた。ジーンズにTシャツ、中肉中背。特徴がないのは、意図したものかそれとも普段のスタイルであったか……。
「まさか、こちらの捜査が洩れたのではないか?」
「いえ……」と、青年が答えた。
「……そんなことは、まずは、ありえないとおもいます。さきほど、ちらっと耳にしたのは、住民の誰かが、なにか大きな文学賞を受賞したのだそうです」
「まずいな……そんな騒ぎで、こちらの動きが明るみに出ると……」
「いえ、すでに偵察員は引き上げさせました」
若いほうはサマー・スーツで、赤、黒、紺系の三色が際立ったネクタイをピンで留めている。いまどきネクタイピンにこだわるのは、この青年にとって肌身離せない大切なものか、こだわりの理由をことさら外へ向けて露呈させなければならない感情の発露があったのか……。
「402……で間違いないんだな?」
「はい……昨夜、偵察員に宅配ピザの服装でピンポンを鳴らさせましましたが、だあれも、出てこなかったようです。居留守か、それとも、すでに死体になっているか……」
「な、る、ほ、ど……」
「402に住んでいるのは、桂木俊輔……に間違いないんだな」
「はい、管理人に確かめました」
「やつの偽名か、それとも新しい仲間なのか……おい、その管理人が、やつの仲間だという可能性はないのか?」
「そ、それは……いまはなんとも……」
青年がぼそりと答えた。
「なんせ、妖しい住人がいっぱい、のようなので……あるいは、アルファ・ビルヂングの住人すべてが、やつらの仲間ということも想定されますが……」
「『オリエント急行殺人事件』じゃあるまいし、すべての住民が共犯者というのは、いささか……」
と、中年男は軽く咳払いして、青年をたしなめた。
「手に持っているのはなんだ?」
たずねられた青年は、
「あ……! マンションのゴミ箱のところに置かれておりました」
「ん……? その……ダイコンみたいなぬいぐるみが?」
「はい、なにか重要なメッセージではとおもい、本部で徹底的に分析しようと持ってきました。もしかすれば、某国スパイのサインか何かかも……」
「いや、まだ他国の諜報機関は、アルファ・ビルヂングには目をつけてはいないはずだ。CIAも、アルファ・ビルヂングには手出しはしないといっていたが……」
「でも、あてにはなりません。私たち、国家安全保障会議警察は、まだ、海外のエージェントからはまったく相手にされておりませんから」
「まあ、いい……支部を、アルファ・ビルヂングから徒歩五分以内に設置しよう。君を支部長に任命する、スタッフを集め、監視体制を敷きたまえ。上層部にはおれが報告しておく」
中年男は蝙蝠傘を青年に渡した。
「なくすなよ、ボタンひとつで、最新式ドローンになる……五分程度なら傘につかまって宙に浮ける」
「ありがとうございます」
「夕方までに長岡惠を寄越すから、当面、ふたりで支部を築いてくれ」
「ひゃあ、あのメグさんですか……とても助かります」
青年……志嶋柊平は目を輝かせた。長岡惠は、バージニア州北部のクワンティコで学んだ俊英で、J-NSA唯一の女性捜査官である。クワンティコにはFBIの研修本部が置かれている。
「部長……このダイコンのぬいぐるみは?」
「おれが本部に持っていこう」
「よろしくお願いします」
柊平は目立たないように頭を下げた。表通りのざわめきがかれの耳を襲った。どうやらエントラス前でインタビュー取材がはじまったらしい。
預かった蝙蝠傘を強く握った柊平は、ネクタイピンを左手の親指で触りながら、ゆっくりと南へ歩き出した……。
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