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401号室の住人
「胎内にいるとき、ひとはみんな水かきがあるそうよ」
突然、惠が言ったとき、柊平は、アッと驚いた。そういうことを聴いたことがあったような、全然無かったようなそんな妙な感覚にとらわれた。
「……たぶん、それが、河童伝説の原型になっているじゃないかしら。現代でも、生まれてからも水かきが残っている人はいるのよ。ブログに自分の手の水かきの写真をアップしている人もいるし、水かきがあるデメリットを書いている人もいたわ……」
どうやら惠は日本の古伝や伝説にも興味があるらしい。ちなみに、惠が説明した、水かきがある人のデメリットとは、
①ピアノなどの演奏ができない(不利)
②手袋を一日中はめているのが苦痛
③絆創膏がはりにくい
④水かきが傷つきやすい
神経が通っているので痛感覚が大きい
⑤タイピングに不利
など……。
「ま、タイピングに不利というのは個人差があって、難なくパソコン作業の仕事に就いている人も多いとか」
「どうして、そんなことまで知っているんだ?」
「だって、これもリサーチの基本でしょ。FBIの行動科学課で学んだとき、教官から強調されたの。たとえば犯人のプロファイリングをするときには、多くのひとは、行動パターンから導き出される心理分析ばかりを優先しがちだけど、実は、当人の肉体的特徴から推定されるメリット、デメリットから、ある程度、本人の行動を予測することも可能なのよ」
「お、そんなこと、捜査に役立つのか?」
「もちろん……ていうか、たぶん、おそらく、パファープス……。香川姉妹が、コウモリや河童に興味を持っていることをある情報提供者から告げられたとき、401号室には本物の河童が住んでいるらしいって教えてもらったから」
「………?!」
志嶋柊平は惠がどれぐらいの本気度で、河童云々を口に出したかはつかめなかった。
彼女はどちらかといえば表情が乏しく、これは帰国子女におおむね共通してみられる性向といえなくもなかった。幼少期に、異文化、多国籍文化の風を受けて育つと、生え抜きの日本人のように、ことさら相手の顔色をうかがい、周囲に合わせようとする国民性ではなく、個の確立という側面が際立ち、それが結果的に表情に乏しいといった印象を与えてしまっているのであったろう。なにも能面のような無表情ではなく、観察すれば普通の表情の波はあるはずだが、柊平にとっては、友達口調で受け答えし、しかもハッキリくっきりと主張する長岡惠という女性は、友人に持てば魅力ある存在だが、職場の同僚・部下としてはいささか扱いにくい面が先に立った。
ちなみに、女流作家の有吉佐和子(1931~1984)も帰国子女で、当時の文壇の大御所級の人に対しても、友だち口調(タメグチ)で応対するなど、その強烈な個性が周囲から敬遠された一因となった。芥川賞、直木賞の候補作にノミネートされながら受賞できなかったのは、なにも文学的作品の価値からではなく、筆者は有吉佐和子本人の性格に起因するところが大きかったのではとおもっている。有吉佐和子の初期の作品群は、もっと評価されてしかるべきものである。
余談が長くなった。
話を戻すと、長岡惠の場合も、その言動に特徴があることだけ読者は知っておけばいいだろう。
「……本物の河童?」
柊平はため息よりも前に言葉が先に出た。
「明日、一緒に行ってみましょうよ、402号室に盗聴器を仕掛けるついでに、401号室のドアをノックしてみましょ。楽しみだわ」
惠が笑った。おそらく笑ったはずなのだが、柊平の目には彼女が放つあやしげな気に振り回されたせいか冷たい笑みとしか映らなかった。
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