57人が本棚に入れています
本棚に追加
BAR COFMY
翌朝、柊平と惠の二人は、海善アパート1階の【BAR COFMY】で軽い朝食を摂った。クローズドのときには、柊平らの捜査官および偵察員、補助員などの休憩場となっている。特別に契約したもので、この店の奥にバー・オーナーの書斎があって、そこに簡易シャワーが設けられていたので、たまに柊平たちも利用させてもらう契約だった。
補助員の一人、元リゾートホテルチェーンの料理長、大竹翁がバータイムのオープンまで、内を仕切っていた。海善アパート地下二階のJ-NSA支部からは、螺旋階段でオーナーの書斎に入れるように改装した。今回の事件が終結したのちも、せっかく設けた支部機能をより拡充させたまま残しておくためだった。
外観からみれば、この【BAR COFMY】は独立した一軒家にもみえる。
その壁だけが白く塗られていたからで、それも拠点構築には必要不可欠なカモフラージュだった。白く塗っていたのは、デザイン性もさることながら、外部からの赤外線探査を通さない特殊な塗料が含まれているからだ。衛星探査電波も跳ね返す。海善アパートの屋上も同様の機能がある反射板で覆われている。
いわば、海善アパートの建物全体が、空の上からは探知不能なステルス性能を有している……。
「竹さん、このスクランブルエッグ、最高だね」
柊平はいつもお礼の気持ちを口にする。よほど気に入っているらしく、ミミのない白パンにスクランブルエッグをはさんで食べるのだ。その残ったミミをかるく大竹に揚げてもらい、砂糖とシナモンをまぶして食べるのが、惠の朝食だった。あとは珈琲。柊平は紅茶、アールグレイだった。
「ひゃ、ありがと。支部長さんは、いつもいつも礼儀正しいので、かえって恐縮するねぇ」
大竹はみんなから“竹さん”と呼ばれている。六十五で定年退職したとき、柊平の上司である部長が引き抜いたのだ。
「でしょ? シュウちゃん、もっと肩の力、抜いたらいいのに……」
「しゅ、シュウちゃん……? まるで、メグちゃんのカレみたいだな」
大竹が笑う。大竹からしてみれば孫娘のような惠が近くにいて毎日会えるのは楽しみの一つなのだ。惠にしても、垣根なく話しかけてくれる大竹翁の存在は、精神衛生上も助かっていた。第一、大竹が直接見聞きして拾い集めてきた情報は、いたって重宝する。
「わたし、カレ、いるし」
「え?」と、柊平は驚いた。
「遠距離だけど。いま、ローマかな」
「え? ひょっとして外交官?」
柊平が続けた。この機会に長岡惠に関するプライベートを一つ二つすくっておくものいい。
「ちがう? 退治してる」
「体重?」
「撃退! 祓魔師……セネパジではわりと有名だし。あ、ネットには出てないよ、国家機密のようなものだから。あ、シュウちゃん、さっそく、検索しようとおもったでしょ」
「あ……いや……セネパジの人なのか?」
もっと突っ込んで聴きたい気持ちを抑えて、柊平は大竹のほうへ話題をふった。
「それで、竹さんは、あの香川姉妹にデートを申し込んだのかい?」
すると、惠が横から
「ダメダメ、竹爺を悩ませたら。あの姉妹、どちらも魅力的だから、どちらを誘うか竹爺は困っているところじゃん」
と、柊平を止めた。惠は、大竹のことを“竹爺”と呼んでいる。
「まだ、アルファ・ビルヂングでは新しい人なんでしょ?」
「おお、そうだね、桜が咲く前に引っ越してきたといってたから……。ついこの前、201号室に比較的若い女性が引っ越してきたらしいけれど……ええと、名前をど忘れしてしまった、なんと言っていたかなあ」
大竹が申し訳なさそうに言うと、惠は、
「あ、それ、急がなくていい、いい。新しい入居者は、スパイの可能性は低いし。そのあたりは竹爺に任せるわ……わたしは、因縁調査のほうが主体になるかな」
と、いった。
「因縁?」と、大竹と柊平は同時に首をかしげた。
「そ、あのアルファ・ビルヂングが建っている土地に関する因縁……」
「それって……?」と、柊平は眉をひそめた。なんの報告もされていないので、惠が何を優先事項に位置づけているのか、わからないのだ。てっきりいいコンビになるとおもっていた矢先に、惠の独善的な行動が、このさきの“国益”というものを損ないかねない。慎重派の柊平にとっては、なんとも気鬱のタネが増えただけだ。
「いわくがありそうなの……」
「・・・・・・・・?」
「まだ、はっきりとはわからない。たぶん、千年以上前の悲劇と関係があるような、ないような……!」
「はあ? からかっているのか?」
「んなことないでしょ。ほんと、わからないの。いま、宮内庁に保管されている古い資料を調べてもらっているとこ」
「どんな資料なんだ?」
「帝室博物院、というのが明治初期にあって、そこの資料にね、出てくるの、アルファ・ビルヂングが建っている土地の話が……。あ、この帝室博物院は、明治初期、新政府が秘密裏に設立した、日本初の諜報機関なの」
「は? そんなこと初耳だぞ。なあんも聴いてない、どうして報告しないんだっ!」
それには答えず、惠はカリカリとパンのミミをかじっている。一本を珈琲に漬けて食べる。これも惠の好みだ。
……ちなみに、江戸時代の世田谷一帯は、いわゆる狭義の“江戸”ではなかった。現在の世田谷区は、かつては、荏原郡世田谷村、池尻村、三宿村、太子堂村、上北沢村、下北沢村、等々力村をはじめ多摩郡喜多見村、鎌田村、上祖師ヶ谷村、下祖師ヶ谷村などから構成されており、江戸中期以降、世田谷二十か村は、彦根藩井伊家の藩領であった。これを飛地といった。本領(彦根)から遠く離れた領地のことを指す。
この井伊家から飛地の支配を任されたのが、大場一族で、代々、幕末まで代官を務めた。いまの世田谷区郷土博物館は、世田谷村代官屋敷があった場所で、余談だが、大場家は、かつて世田谷区長を務めたこともある。
そんなことを説明したあとで、惠は言った。
「ね、だいたいのことはわかったでしょ?」
活字にすれば得意げに言ったような印象を与えてしまいがちだが、ただ事実を淡々と述べたにすぎない。
「何が言いたいんだ?」
柊平が口を挟んだ。唇についた卵の粒がいやにてかてか光っている。
「だからさ、アルファ・ビルヂングが建っているところは……パワースポットかも、ということ!」
「な、な……」
「なんか、そんな感じ……霊的なものを強く感じるの。たぶん、メイビー、パファープス……」
「そ、そんな……アメリカで先進の科学捜査を学んできたキミが、そんなことを……」
「シュウちゃん……メグでいいよ、メグって呼ばれるのに慣れているし」
「な、な……」
「あ……それ、はやらそうとしてない? な、な、というの」
「な、な……」
「だから、カレにも、そのうち、日本に来てもらうことになるかも。わたし、除霊なんてできないから」
「な、な……」
柊平は何も言えない、返せない。いやこれ以上突っ込まないほうがいいと咄嗟に判断したのだ。
この日は401号室をたずね、402号室の“桂木俊輔”が生きているかどうかだけを確認する予定だった。かりに、すでに死体となっていても、まだ発見してはならないのだ。当人の背後関係が判らないままでは、かえって事件が沈潜してしまいかねないからだ。
死体というものは、捜査側にとって極めて都合いいタイミングでこそ、発見されなければならない。発見が早すぎても遅すぎてもいけない。早すぎれば、真相解明にはむしろネックになることも、しはしばある。なぜなら、犯人およびその背後にいる者たちの大まかな関係をある程度つかんでおかないかぎり、次の一手が打てないからだった。
このあたりが、通常の警察捜査とは異なる。
敵を泳がしつつ、こちらが望む解決、それには国家間の政治的妥協等も含まれるのだが、あくまでも国益を最優先させた展望を描かなければならない、企図していかなければならない。
……これこそ、一国の諜報機関にとってのイロハのイであった。
※註
参考文献
安東アオさん
『リセット』
https://estar.jp/novels/25980982
最初のコメントを投稿しよう!