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支部長室
支部のIT支援要員は十二名に増えていた。二名ずつ交替で勤務しているので、全員が揃ったことはまだない。志嶋柊平はわずか数時間留守にしていた間に、天井のない間仕切り仕様で〈支部長室〉が出来ていたことに驚いていた。
八畳ほどの広さがある。
ミーティングデスクを兼ねているらしい長細いアルミ製の天板、背もたれ肘置き付きのアンティークふうの木椅子。背面にはなにもなく、レンガ模様の壁紙が貼られていた。
大型モニターが三台、一辺には書棚、もう一辺にはドアがあった。
「それ、支部長の仮眠室です。部長の指示で、シャワーとベッド、トイレ付きの個室を造りました」
「あ……あ」
「支部長はバツ二だそうですので、ここに住むほうがいいという部長判断のようです。セックスの欲望を満たすときは、等々力駅徒歩二分のラブホが便利です……とのことでした」
「あ……あ」
「ほかに御用はありますか?」
「あなたは……?」
「はい、厚生労働省から出向して参りました。等々力と申します」
「あ……あ」
「ちなみに、小官の一族は、江戸時代から世田谷の等々力村に住んでおりました」
小官と自分を指すのは、防衛省、海上保安庁関係者に多いが、厚生労働省という出身母体を信じるならば、おそらくかれは麻薬取締官なのだろう。それぐらいは、柊平にも推測できる。自分よりもかなり歳上らしい相手に対し、どういう返事をかえしていいのか、戸惑っていると、等々力が意外なことを口にした。
「メグ警視どのにも同じような個室を別にお造りしておきました」
「あ……あ、メグ警視? メグレ、じゃなく?」
「はい、長岡惠警視どのは、以前から、こちらの内偵にも大変なご尽力をいただいております」
警視という階級名から察すると、惠はどうやら正式には警察庁からの出向なのだろう。今のいままで、彼女は防衛省情報本部か内閣情報調査室所属だとばかり思い込んでいた柊平は、部長がすべての情報を伝えてくれなかったその理由のほうが不審におもえた。
ちなみに、一般には警察庁と警視庁の違いは分かりにくいかもしれない。警視庁は、いうなれば、東京都警察本部、と言い換えることができる。首都という特殊事情から、警視庁という名を特別に冠せられているにすぎない。全国の警察組織を統括しているのは、あくまでも警察庁なのである。
……さらに余談だが、明治期、大阪にも、大阪警視庁が存在していた。本部は現在の大阪城の敷地内であった。なお、明治新政府まで、大阪のことは、〈大坂〉の表記である。大坂城、といった。かりに明治維新以前の歴史物を書く場合は、〈大坂〉の表記に注意しておくべきだろう。坂が〈阪〉になったのは、〈坂〉字を分解すれば、〈土に反る〉という意になり、縁起が悪い……といった極めて即情的、前近代的な雰囲気に起因したものである。呪術的転換手法……といっていいかもしれない。
……横道にそれすぎた、話を戻そう。
「内偵というのは……アルファ・ビルヂングのことなのかい?」
そのことだけは確認しておくべきだと柊平は判断した。
「いえ、ちがいます。二年前から一部で流通している、あるヤクブツについての……です」
「薬物?」
「はい、詳細については、小官にはそれを伝達する権限がありませんので、メグ警視どのから直接お聴きください」
それだけ告げると等々力は支部長室から出ていった。礼儀正しいのだが、まだ柊平に対しては警戒している気配が濃厚に漂っていた。その一方で、惠には全幅の信頼を置いているようである。
(ん……? おれの支部長の肩書はただのお飾りか!)
と、おもった次の瞬間には、柊平は、
(あ……あ、これも部長が描いたシナリオかもしれないな)
と、考え直した。
おそらく部長は、情報のすべてをあえて与えないようにすることで、新設支部の支部長として柊平が自力で全体像に近づくための試練と機会を提供したのかもしれなかった。なんの確証もないが、一度に大量の情報がもたらされるより、一つひとつ異なったシーンから導き出される個々の要素を結びつけ、角度を変え把握分析することこそ、いまの柊平には必要なのであったろう。
支部長室の外でざわめきが起こった。
戻ってきた惠が、個室を与えられてはしゃいでいるのだ。
「ひゃあ、トドちゃん、サンクス、サンクス、サンスクリット!」
惠がへんなシャレを連発するのは、喜んでいる証だ。顔の表情より、発するフレーズの内容で、彼女の喜怒哀楽が第三者にも伝わるのだ。
それにしても、サンクスとサンスクリットを並べるのはいささか無理がありすぎる。それを指摘してやろうと飛び出した柊平は、ほとんど裸体に近い惠の乳房が揺れているのみて、
「あ……あ」
と、いつものフレーズとともに両脚が固まった。
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