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「どうかした?」
言われて、我にかえった。
昨夜遅くから降り始めた雨は、一向にやむ気配がなく、昼下がりだというのに窓の外は夜明け前のように暗い。屋根に当たる雫の音が、風に煽られ大きな波を作る。時折車のタイヤが湿った地面を噛んで通り過ぎ、学校帰りの子供達が奇声を上げながらぴちゃぴちゃと水を跳ね散らかしていく。それら全てを、無音よりも静かなホワイトノイズが包み込む。ノイズはこの部屋を囲い、型取り、内部の空間を隔絶された別世界のように感じさせた。
「いや……」
僕は静かにかぶりを振る。
「なんでもない。ただ、ちょっと……」
「昔の女のことでも考えてた?」
ふざけたように言う彼女。
「何言ってるんだよ」
僕は裸の肩を抱き寄せる。
「ばかだなあ」
「ばかじゃないもん」
拗ねた声に、僕はちょっと笑う。
「ごめんごめん」
「もう……」
彼女が寝返りを打ってこちらに顔を向ける。
「じゃあさ、何考えてたの?」
「別に……つまんないことだよ」
「えー。ちゃんと言ってよ」
「いや……ただ、雨だな、って」
屋根、そして窓がたてるパラパラ言う音は、不定期に強まり、また弱まり、空間そのものに濃淡を作り出すかのようだ。傘を忘れたのだろうか、誰かが家の前を走り抜けていく音が、そこに断裂をもたらす。
「なにそれ」
彼女は鼻しらんだように言う。
「だから言ったでしょ、つまんないことだって」
「そうだけど……」
不意に彼女が抱きついてくる。脇腹に小ぶりな乳房が当たる感触に、情欲の残滓がかすかに揺らぐのを感じる。
彼女は囁くように言った。
「あたしのこと忘れて考えてたのが、そんなことだなんてさ」
「別に忘れてたわけじゃ」
「嘘。ぼーっとしちゃってさ。あたしのこと、見えても感じてもいなかったよね?」
「それは……」
僕は口ごもる。言われてみれば、そうだったような気がする。そもそも彼女に声をかけられるまで何を考えていたのか、思い出せるのはただ雨の音に耳を傾けていたことばかり。本当に何かを考えていたのかすら、自信をもって言い切ることができない。
「たださ、」
それでも、僕は記憶をたぐり言葉を紡ぐ。
「考えてたんだ。雨の音って、パターンがあるのかなって」
「パターン?」
不意に雨音が強まる。見えていなくても大粒だとわかる激しい音。固体を思わせる硬質な音が響き、部屋の中を満たす。
「そう。不思議なんだよね。何かのリズムがありそうなのに、よく聞くと不規則にも思えるし、だけど全体としては均一で。しかも時間とともに変化していく。まるで……」
そう、まるで、この、雨音は。
「何かを、描写しているようだと思って」
「描写?」
外の音に覆われて、奇妙に遠くから彼女の声が聞こえる。僕は続ける。
「そう。絵筆が、繊細に、大胆に、キャンバスに絵を描いていくのと、雨の音って、似てると思わない?」
「……そう、かな?」
「うん。一筆一筆のタッチには意味がなくて、同じところを描く時には繰り返し似た動きがあって、けれども全く均等っていうことはない。大きな目で見れば全然違う動きもあるのに、全体は一つの絵を描くための統一感の中にある」
「じゃあ」
彼女の声が不安げに聞こえるのは、勢いを弱めない雨音のせいだろうか。
「何を描いているって言うの? この終わらない雨の音は、どんな絵を描いてるの?」
「わからない、けど……」
僕は考えながら言う。
「キャンパスは、僕らの心なんじゃないかな」
「心?」
「そう。脳、って言い換えてもいいけど。だって、ほら、ただ別々に鳴り響いているだけの、一つ一つの音が、統一感のある風景として意味を持つとすれば、それはその全てを聞いてパターンを探す僕らの心の中より他にないんじゃないか? だとすれば」
「だと、すれば?」
「心に浮かぶ思考、感情、想い……いや、記憶や、風景……雨が描く絵は、そのどんなものでも、ありうるんじゃないか?」
「そんな……だって、記憶まで」
「人の記憶は曖昧なものだよ。確かに覚えていたことを綺麗さっぱり忘れてしまうこともあれば、何度も同じ話を聞いているうちに、自分の記憶として保存してしまうことだってある。だったら……この際限のない雨音のパターンが、僕らの記憶を上書きし、ありもしないものを見せたとしても、何の不思議があるんだい?」
雨の音が、少し小さくなる。だが消えることはなく、背景放射のようなノイズの中に、ぽつぽつと雫の音を浮かばせて、部屋の中を満たし続ける。立て続けに三台、自動車が外を通り、タイヤが濡れたアスファルトを踏み、水溜りに突入して飛沫を上げる音が、次々に聞こえてくる。
……はて、今僕は誰かに向かって話しかけてはいなかったか。
僕の隣には、誰かがいたのではなかったか。
一人の部屋の中に、雨の音は、いつまでもいつまでも、鳴り響く。
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