落ち武者

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落ち武者

寝苦しい夜だった。 窓を全開にし、扇風機を強にしてもじわりと汗をかく。 古い木造アパートの俺の部屋にはエアコンがない。 年々、暑さが増していき、今年は扇風機の調子も悪かった。 カタカタ音を立てるだけで首が回らなくなってしまった。   身体を起こし、扇風機に顔を近づけ、タンクトップをつまんでパタパタ振りながらしばらく涼んだ。 水を飲もうと立ち上ったとき、四畳半ほどのキッチンの床に誰かが座っていた。 ハッと息が止まり、その場から動けなくなった。 声も出すことができずに、ただ冷や汗だけが流れた。   よく見ると、落ち武者だった。 頭頂部は、キッチンの窓から入る外廊下の明かりで光っていて、耳の少し上から長い髪が生えていた。 服は袴を着ていて、刀を床に立てて持っていた。 目はうつろでどこを見ているのか分からない。   とうとう見えてしまった。 今まで幽霊なんて見たことなかったし、霊感があるという高校の同級生をバカにしていた。 きっとバチが当たったんだ。 こういうときは、どうしたらいいんだ。 幽霊から距離をとり、頭を抱えた。 寝てしまおう。 ぎゅっと目をつむり、心の中で「ごめんなさい」と謝り続けた。 まぶしくて目が覚めた。 のどがカラカラだった。 そうだ!  昨夜のことを思い出し、キッチンに目をやった。 誰もいなかった。   ホッと胸をなで下ろし、冷蔵庫からミネラルウォーターを取り出した。 昨日あけたばかりなのに、ほとんど残っていなかった。 減りが早いなと思ったが、この暑さじゃ仕方ない。 七時の時点ですでに太陽はギラギラだ。   仕事から帰ると、キッチンにまた落ち武者が座っていた。 時刻は午後九時。 まだ幽霊の出る時間じゃないだろ。 いったん、玄関の扉を閉めて、アパートから少し離れたところで霊感があるという杉田に電話した。 「大変なんだよ。うちに落ち武者がいるんだよ。おまえ、霊感があるって言ってたよな。今からうちに来てくれよ」 「無理だよ」 「何でだよ。お願いだよ」 「もしかして牧野くん、幽霊怖いの?」 電話の向こうでニヤついている杉田の顔が想像できた。 墓地で肝試しをしたとき、杉田を巻いてみんなで先に帰ったことをまだ根に持っているんだな。 「バ、バカ言え。怖いわけないだろ。そうじゃなくて、お祓いをしてほしいんだよ」 「僕は霊感があるだけだから、お祓いなんてできないよ」 「じゃあ、どうしたらいいんだよ」 「そのうち消えるよ」 「昨日も出たんだよ。今日、仕事から帰って来たらまた現れたんだよ」 「ふーん。まあ、お供えでもすれば? じゃーね」 「お、おいっ。待てよ」 電話は切れた。 くそぉ。霊感があっても何の役にも立たねえ。 アパートに戻り、扉をそーっと開けると、背筋を伸ばして座っている落ち武者の背中が見えた。 お供えって何だよ。 とりあえず、コンビニに行って大福とまんじゅうを買って戻ると、落ち武者は同じ姿勢で同じ場所にいた。 明かりをつけると、はっきりと姿が見えてしまうのではないかと思って、そのまま部屋に入った。 落ち武者の横をそーっと横切る。 急いでビニール袋から大福とまんじゅうを出し、目をつむりながら落ち武者の前にお供えした。 「これで勘弁してください」 薄目を開けて見ると、落ち武者がお供え物をじっと見ていた。 気づくと朝になっていた。 落ち武者の姿はない。 そして、あることに気がついた。 お供え物がなくなっている。 部屋中を探したが、どこにもなかった。 ふとゴミ箱を見ると、透明の包装フィルムが二枚捨ててあった。 食べたのか? 幽霊は食べるのか?  でも、食べたということは俺の気持ちを汲み取ってくれたということだ。 今夜からゆっくり寝ることができる。 シャワーを浴びながら自然と鼻歌が出た。 その日の夜、玄関の扉を開けて絶望した。 また落ち武者が座っていた。 何でだよ……。 落胆がだんだんと怒りに変わった。 ずかずかと部屋に入り、部屋の端から落ち武者に怒鳴った。 「おいっ! お供え物食べたんだからもういいだろ」 落ち武者と目が合った。 その瞬間、ゾワゾワっと鳥肌が立った。 「すいません、すいません」 俺は落ち武者に土下座していた。 しばらくして静かに顔を上げると、落ち武者はぼんやりと空間を見ていた。 こうしてみると存在感に圧倒されるが、何もしてこないところを見ると、悪い奴ではなさそうだ。 幽霊なんて放っておけばいいか。 幽霊に翻弄されるなんてばかばかしい。 着替えてコンビニ弁当を袋から出し食べ始めると、落ち武者の視線が弁当に注がれていることに気づいた。 「腹減ってるのか?」 落ち武者は何も言わず、視線をそらした。 弁当と一緒に買った菓子パンを落ち武者の前にそーっとすべらせた。 落ち武者は、菓子パンをじっと見つめている。 次の瞬間、落ち武者の手が動いた。 刀を抜かれる!  俺は、身の危険を感じて壁に背中をつけた。 いつでも逃げられるようにそーっと窓辺に近づく。 やっぱりお供え物は和菓子じゃないとだめなのか。   落ち武者は、立てていた刀を床に置くと菓子パンを手に取った。 そして、袋を両手で開けると、菓子パンにかじりついた。 みるみるうちにパンが落ち武者の口の中に消えていく。 それを見て、俺の中から恐怖が消えた。 その日から、落ち武者がいても気にならなくなった。 落ち武者の分の夕食も買い、時には手料理を振る舞うこともあった。 落ち武者に話しかけても返事をしない。 幽霊は食べるけれど、しゃべることはできないらしい。   朝になると落ち武者の姿は消え、夜になると現れる。 あるときは、鍵のかかっていない玄関の扉を開けてやって来ることもあった。 バラエティ番組を見ながら爆笑していたら、落ち武者が少し笑っていたこともある。   ある日、扇風機の風が落ち武者のパサパサの髪を揺らしているのを見ていたとき、落ち武者に触ってみたくなった。 落ち武者は夢中でカップラーメンをすすっている。 俺はそーっと刀に手を伸ばした。 刀は、しっかりとした重みがあった。 落ち武者と目が合った。 落ち武者は、麺を口にぶら下げたまま刀を抜く俺を見つめていた。 「すごいな、これ」 ふと、幽霊を刺したらどうなるのだろうという疑問が湧いた。 死んでるんだから、殺せないよな。 でも食べ物を食べるということは身体があるということで、肉体に触れることはできるのだろう。 死んでいる肉体を差したらどうなるのか。 あぐらをかいている落ち武者の太ももに刀を突き立てた。 肉に刺さる感触があったが、切れ味が悪いのか刀の先だけしか刺さらなかった。 「ぎゃー」 絶叫に驚き、刀を投げ捨てた。 落ち武者の手からカップラーメンが落ち、落ち武者の目が見開いていた。 落ち武者は、袴の上から太ももを押さえて悶絶している。 落ち武者の指の隙間の袴の色がじわじわと変わってきた。 「タオル!」 落ち武者が叫んだ。 急いで洗濯物の山の中からバスタオルを探して落ち武者に渡した。 白いバスタオルが赤く染まっていく。 「何で?」 「こっちのセリフだよ」 「だって幽霊は死んでるんじゃないの?」 「俺は幽霊じゃない」  落ち武者は、俺をにらみつけた。 「落ち武者の恰好をした生きた人間だ」 「すいません、すいません」 タオルを追加して落ち武者の太ももを一緒に押さえつけた。 「おまえは知らないのか。幽霊に寿命があるということを」 「寿命?」 「現代に落ち武者の幽霊なんていないんだよ。バカめ!」 俺は頭を抱えた。 なんてことをしてしまったんだ。 これは殺人未遂の罪に問われるのではないか。 俺の人生は終わりだ……って待てよ。 「あなた誰ですか? 何で他人の家にいるんですか?」 落ち武者と過ごした日々がよみがえった。 一緒に弁当を食べながらテレビを見て笑ったこの数週間の思い出が一気に頭によみがえった。 「立派な不法侵入ですよね?」 「バレてしまったら仕方ない。とりあえず、救急車を呼んでくれ」
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