咀嚼音源収集デート

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「あー、どうしてこんなことに……」  週末。いつものキックボクシングを終え、ロビーで水分補給しがてらスマートフォンの画面を覗いた。 『琴美、連絡先教えてくれてありがとう』 『今度、美味しいご飯ご馳走するね』 『楽しみ』  彼の恍惚とした笑顔を思い出し、背中の辺りに寒気が走った。 「何故……」  何故連絡先を教えてしまったの。  何故彼はこんなにも私の咀嚼音を。 「どうした琴美ぃ。そんな暗い顔して。腹でも壊したかー?」  何も知らない大志がケタケタと無邪気に笑う。  横に座って水を豪快に飲み干す彼。 「そう言えば、いい感じの子とはどうなの?」  人の惚気話でも聞いて現実逃避しよう。 「あ、ああ。まあ、いい感じよ」  目を泳がす大志に、余計なことを聞いてしまったと後悔する。 「そういうお前は?」  この間皆無と言ったばかりなのに、そうそうすぐに相手が見つかるわけないじゃないか。 「まあ、気になる人はいるけど」  いろんな意味で、生態と思考回路が気になりすぎる人が。 「嘘!?誰!?どんな奴!?」  立ち上がり血相を変えて声を荒らげる大志に絶句する。  そんなに意外だったのかな。 「いや……勤め先の副社長。かなりイケメンなんだけどさ」  イケメンだけどクセが強い。 「ふ、ふーん……」 「もう、その人のことを考えると、夜も眠れなくて」  何故、私の咀嚼音に執着するのかということに。 「……へえー」  大志に愚痴を聞いてもらっていた途中で着信画面に切り替わり、心臓が止まりそうになった。  ……有村副社長だ。 「も、もしもし?」  恐る恐る電話に出ると、耳元に癒されるバリトンボイスが響き膝から崩れそうになる。 『もしもし、琴美?急にごめんね』 「い、いえ」  ふと、大志がこちらを鬼の形相で見ているのに気づいた。  何故か気まずさを感じながらも、一応上司、それもかなり目上の人なので切るわけにもいかない。 『美味しい豚カツ屋さん見つけたんだ。今から行かない?』 「豚カツ!?」  この汗を振り絞った後の、枯渇状態に豚カツなんて、魅惑すぎる。  カラカラの身体に、肉汁を注ぎ込みたい。  いや、でも…… 『本当は予約でいっぱいで中々すぐには入れないんだけど、知り合いがキャンセルしたから声かけてくれて』 「でも……」  咀嚼音、聞かれてしまうし。 『三元豚だよ』 「三元豚……」  バリトンボイスで囁かれる三元豚の威力。 『ご飯は、新潟産コシヒカリ』 「新潟産コシヒカリ」  だめだ。誘惑に負けてはだめ。 『漬物は、こだわりのいぶりがっこ』 「い、いぶりがっこ!?」  震えが止まらない手で必死にスマートフォンを持ち、ついには降参したように声を出した。 「是非お願いします」    燻製には勝てない。 『ありがとう!今から迎えに行くよ。場所教えて』 「は、はい」  そんなに弾んだ声で喜んでくれると、ますます絆されてしまって。  駅名などを伝えてやっと電話を切り、大きなため息をついた。 「ごめん、今からその副社長とご飯行ってくる」  大志はしばらく黙って私のことをじろじろと見つめた後、驚くべきことを口にした。 「……俺も行く」 「は!?」 「俺も一緒に連れてけ」  今まで見たこともないような真剣な目つきに圧倒され、苦笑することもできなかった。
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