咀嚼音源収集デート

9/13
801人が本棚に入れています
本棚に追加
/100ページ
 そして約束の週末。  最寄り駅まで迎えに来てくれた彼を見て、目を丸くする。  今日はいつもの黒塗りの車じゃない。  朝から目が覚めるような真っ白のスポーツカーだ。  それに、運転席から降りてきたのは有村さん本人。 「おはよう、琴美」  一週間ぶりに至近距離で見る有村さんの麗しさは凄まじい。  休日にも関わらずきちんとしたジャケットスタイルだけど、中は丸首のカットソーだから柔らかい印象。  スポーツカーとは負けず劣らずの眩しさに目がくらむ。 「琴美」  不意に伸びてきた手は、私の肩までの髪を優しく撫でた。  ドキッとするも、嫌悪感は全く感じない。 「可愛い格好してる」  別にあの美しい秘書さんに張り合ったわけじゃないけど、いつもまとめている髪を下ろし、服も珍しくフェミニンなものを選んで。  そんな変化に気づいてくれたのが嬉しくて、うっとりした視線も、優しい手も、ちっとも嫌じゃなかった。 「乗って」  促されるまま助手席に乗り込む。  慣れた手つきで運転を始める彼は、いつもより増して魅力的に見えて。 「そうだ、はい」 「……?」  手渡された小さな粒。 「ガム?」  途端に顔を紅潮させる彼に、勢いよく現実に戻された。  そうだったそうだった。  変態だった。  膨らみかけていた淡い気持ちが、急激に萎んでいく。  変態じゃなかったら、もっと素敵なのに。  だけど変態じゃなかったら、私なんて相手にしないんだろうな。  なんだかすごく切なくて、だんだん悔しくなってきて、信号が赤になるのと同時に彼の顔に近づいた。  自棄になって、わざとらしく耳元で咀嚼する。 「クチャクチャクチャ」  あー。何やってるんだろう。  こんなことしたって、何にもならないのに。  虚しさと共に耳元から離れた瞬間、急に手を掴まれて変な声が出た。 「なっ!」  彼はとろんとした瞳で私を見据え、耳まで真っ赤にして言った。 「そうやって煽ると、歯止めきかなくなる」 「は!?」  心の底から声が出た。  煽るって何!?  心の癒やしの為にASMR聞いてるんでしょ?  私の手を握る手は、かなりの熱を帯び力強い。 「有村さん……?」  薄々気づいていたけど、彼の咀嚼音好き、癒やしというよりもっと……性的な意味合いを含んでいるような。  危険!危険!そう警告アラームが頭の中で鳴っているように、改めて気を引き締める。  彼を好きになっては危険だ。  そもそも、好きになってはいけない相手だし。  青信号になり手が離れた瞬間、一人静かに決心した。  もうこんなことは、今日で最後にしよう。  彼にそう伝えよう。  何も知らない彼は、まだ微かに赤い横顔で運転に集中していた。    
/100ページ

最初のコメントを投稿しよう!