咀嚼音源収集デート

10/13
803人が本棚に入れています
本棚に追加
/100ページ
 車は横浜方面へ向かう。  私が昨日お願いしたからだ。    彼と一緒に行きたいところは、地元にある、昔から通っていた行きつけのお店だった。 「すみません、行き先勝手に決めてしまって」 「いや、嬉しいよ。琴美の地元を案内してくれるなんて」  そんな言い回し、まるで恋人同士みたい。  咀嚼音しか興味ないくせに。  それでも屈託ない笑顔に癒され、憎めない自分が悔しい。 「せっかくだから観光地回ってみようか」  彼の提案通り、桜木町で車を停めてしばらく周辺を回ることに。  展望タワーやショッピングモール、遊覧船などを楽しんだ。  こうしていると、なんだか本当のデートみたい。  彼は思いの外、必要以上に食事を勧めたりもせず、咀嚼音に拘る様子も見られない。 「晴れてて気持ちがいいね」 「ホントですね!」  秋めいてきた9月下旬、海沿いの公園はとても涼しくて吹き抜ける風が気持ち良い。 「少し休もうか」  そう言って彼は海が見えるベンチを勧め、品のいいグレーのハンカチをそっと敷いてくれた。 「どうぞ」 「ありがとうございます」 「飲み物何が良い?」 「じゃ、じゃあアイスコーヒーを」 「オッケー」  颯爽と売店へ向かう有村さんに、周りの女性達は皆見惚れてる。  かく言う私もその一人で。  さっきから、何から何まで丁寧に、私を一人の女性として扱ってくれるのが嬉しかった。 「お待たせ」  ニッコリ微笑む彼が運んでいるトレーには、ドリンクの他に可愛らしく渦を巻いたソフトクリームが。 「はい。琴美甘いの好きそうだったから」 「ありがとうございます!嬉しい!」  また絶妙のタイミング。  歩き疲れて甘いものを欲してたんだ。  それも、口溶けの良い柔らかいものを。  満足げに微笑む有村さんに、じんと胸が温かくなる。 「あ、でも」  そこでまた我に返った。 「これ、咀嚼音出ませんね」  少し冗談めかして苦笑すると、彼は首を横に振る。 「今は別に、咀嚼音のことは頭になかったよ」  有村さんは、当たり前のようにして、ごく自然に言った。 「単純に、好きかなって」  嬉しくて嬉しくて、先っちょの一番美味しいところを口に含み、その柔らかさと冷たさを味わった。 「美味しいです!」  そして、涙目で精一杯彼に笑いかける。  有村さんは、自分が食べているわけでもないのに、まるで何か美味しいものを食べた後のように充足感に満ちた顔をしていた。 「良かった。俺、琴美が美味しそうに食べてるところを見ると幸せなんだ」  今までもらった言葉の中で、一番のほめ言葉だ。 『お前って、ホント食ってばっかだな』 『恥ずかしいからやめてくれよ』  今まで付き合った男性には、そんなことばかり言われてきたから。 「もちろん食べてる時だけじゃなくて、一緒にいると楽しいよ。すごく癒される。琴美が元気をくれるから」  そんなことを言ってくれる人がいるなんて、思ってもみなかった。  もう誤魔化していた感情を抑えることができなくて、恥ずかしいかな、公共の場でガッツリ泣いてしまった。  ソフトクリームを片手に泣くなんて、子供と同じだ。  それなのに有村さんは、全く動揺したりもせずに、恥ずかしがって周りの目を気にすることもなく、黙って私の頭を撫でてくれた。 「ソフトクリーム溶けるよ」  それだけを心配してくれる。 「はい……」  もう一度口に含んだソフトクリームは優しい甘さに感じて、今日のこの味はきっと、これからも一生忘れないだろうと思った。 「美味しい……」  どんどん食べて、コーンまで行き着いたその時。 「サクッ……」 「あっ……」  彼は必死に隠しているようだったけど、ワッフルコーンの咀嚼音に反応しているのは一目瞭然だった。  私はなんだかおかしくて、彼がとてつもなく愛しく感じて、泣き笑いしながらコーンを咀嚼する。 「ザクッサクサクサクッ……」 「ふう……ふう……」  握り拳を作って身悶える有村さんは、誰がなんと言おうと紳士だ。    
/100ページ

最初のコメントを投稿しよう!