徒花の幸福

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徒花の幸福

 贔屓客を見送り、店の外へ出た福寿(ふくじゅ)がお客に別れの挨拶を告げると、頷いて微笑んだ男は愛しげに福寿の手を取り瞳を覗き込んだ。 「次に余が来る時までに、気持ちを決めてくれ──」  顔を曇らせ、言葉を返そうと動いた福寿の口唇へ手の掌を向けた男は、『余の気持ちは伝えたであろう』と、福寿が返答に選んだ言葉に首を振った。  ぽん──と軽く肩を叩かれた福寿は、『はい』と了承を口にして馬車へ乗り込む男に頭を下げた。  お客を乗せた馬車が角を折れ、視界から消えて漸く踵を返し安堵の息を吐くと、求められた答えに憂鬱を思った。  見送った福寿の贔屓客は、西側の隣国ヴェロニックの王様だ。福寿を贔屓にして二年、子を()たせたいと願われ、一度は妊娠の兆候があったものの命は巧く育たず流産(ながれ)てしまった。元来身体の弱い福寿だ、この時のダメージが後々仇となり、頻繁に寝込むようにもなってしまい、濤声楼のお抱え産科医には、福寿の身体で子を孕つことは、もう無理だろうとも言われていた。  妊娠の見込みが薄くなった福寿にも拘わらず、ヴェロニック王は福寿を第三夫人として身請けしたいと言い出した。子を孕ったでも無い徒花を身請けするなど前代未聞──戯れにも程があると福寿は身請けを断った。  ここ濤声楼での身請けは特殊で、第一に徒花がそれを望むことを条件とし、譬え相手が国王であろうが、徒花が首を縦に振らない限り成立しない独自のものだった。何依りも徒花の想いを尊重したい朝霧(あさぎり)の作ったこの店でのルールだった。 「子は慌てずゆっくりと、授かる時を楽しみにその時間も尊く共に過ごしたい」  そんな風に福寿の承諾を王は求めたが、極めて望み薄い懐妊に如何ほどの尊さが有るのだと、毅然と断りを告げた福寿だったが、 「君は、余を愛しくは想ってくれないのか」  などと、ヴェロニック王は福寿を困惑させた。静かに俯向いた福寿は『分かりません』と顔を振った。 「徒花の私に、愛を問うなんて──狡くございます」  些か厳しい調子で訴えた福寿は、抱き締める腕を払い、背中を向けて憤りを見せたのだ。そうして話は平行線のまま時を過ごすこととなった。 「お馬鹿な王様──徒花に愛だなんて……分かるわけないでしょうに」  呟いて空を見上げた福寿を揶揄(からか)うように、二羽の雀が戯れながら視界を横切った。愛らしくチュン──と鳴いた小さな鳥の姿を視線だけで追い掛け、『愛だなんて』と嘲った福寿の後れ毛を揺らした風が、馬の蹄の音を連れて耳を掠めた。  店へ戻り掛けながら外門を振り向いた時、馬の嘶きと共に停まった馬車から見知った男の姿が現れた。  男が数ヶ月前まで足繁くこの濤声楼(とうせいろう)へ通っていた武尊(たける)だと気付いた福寿が笑顔を作ると、武尊の手を借り馬車から降りて来たのは白露(しらつゆ)で、 「白露ちゃん、もう大丈夫なの?」  名を叫んだ福寿は駆け寄り抱き締めた。無理が過ぎたのか体調を崩し暫らく入院していた白露は、元々華奢だった身体だが、病床に伏していた所為か、一回り程小さくなってしまったようで、福寿は胸に哀しみを広げたが、穏やかな微笑みを浮かべた白露の頬は思いの外血色も良く、応えた声は凛と張りの有るものだった。 「身体が空いてたらお迎えに行こうと思ってたのに──ごめんね」  今日が退院の日と聞いて、下働きの男に付き添って貰い、白露を迎えに行く了解は女将に貰ったものの、生憎と昨夜遅く先ほど見送った客が付いてしまい、福寿は迎えに出ることが叶わなかった。 「有難うございます。──旦那さんが、来てくれました」  後方から白露を支えた武尊を振り返り、惚っとり瞶めた眼差しに、福寿はその男と別れた際、男への叶わぬ恋に胸で泣いた白露を思い出した。  白露が今頬を淡く染めているのは、恋の成就の欣幸(きんこう)と感じた福寿は、悲しみばかりだった白露に訪れた幸福が、終わり無きようにとの祈りを込めて二人を瞶めた。
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